インタビュー企画第8回 一般社団法人メンタルバランス研究所専務理事 宇佐見彰さん 前編

インタビュー企画第8回前編では、
一般社団法人メンタルバランス研究所 専務理事、
株式会社リアルパートナー アドバイザーの
宇佐見 彰さんにお話を伺いました。

宇佐見 彰さんプロフィール
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昭和46年英国ソニー、ソニーオランダ駐在員
昭和47年NATO(北大西洋条約機構軍)PXビジネスソニー全権代表
昭和48年ソニーフランス設立
昭和60年ソニー本社退職
昭和61年(株)ビジネスカルチャーセンター設立
(社)日本お助け隊 隊員
(社)メンタルバランス研究所 理事
(社)スウェーデン社会研究所 理事
ソニーOB会 理事

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まずは生い立ちをお伺いしたいと思います。 小さい頃はどんな子供でしたか?

僕は千葉の浦安で生まれました。小さい頃から機械が好きで、 ラジオを分解して組み立てたりするのが趣味のような少年でした。
親戚のラジオが壊れるのを今か、今かと待って・・・(笑
その時がくると走って直しに行っていましたね。
当時は純粋に、ラジオなどの機械に好奇心があったんです。
この小さな部品の寄り集まりからなぜ音が、声が聞こえてくるのだろうと。
廊下の隅に実験室を作って、ビーカーや試験管をならべて 少年エジソンなんて呼ばれていました。

お父様もやはり工学に興味がおありだったんですか?

はい。父もメカニカルなことが好きで、父の影響は非常に強いです。
父は零戦のパイロットでした。 フィリピンまでいったけれども燃料不足で飛べなかったんです。
それで帰ってくる事ができたと聞いています。

お小さい頃から工学部コースまっしぐらだったのですね。

そうですね。工学部進学への転機は高校生のときに起こりました。 当時、光のスピードを測るとういうことについて自分なりに研究レポートを書いたのです。
するとそれが学生科学論文集に載り、当時のソニーの副社長の目にとまって、イギリスの大学へ留学できることになったんです。
鏡と鏡の真ん中にプリズムを置いて一方から光を当てると、 その光が鏡の間を何度も反射して往復するんです。光のパルスですね。
その往復する回数がわかれば光のスピードがわかる、というものなんですけれど。スピードというのは時間と距離の問題で、僕は特に時間に興味がありました。

高校を卒業されてすぐイギリスへ留学されたのですね。
しかも一流企業の推薦で。素晴らしいですね。

イギリス留学が決まった時は、両親がとても喜んでくれました。嬉しかったですね。
ウィンザー城の近くでホームステイをして、スラウ工業大学で勉強しました。
ソニーのお客様がイギリスへいらしたときにには、運転手のようなこともしていました。
テムズ川で釣りをしたのも良い思い出です。 英語は全然できなかったんですが、生活するには必要なので自然と身に付きましたね。
刺激的な4年間を過ごして、そのまま駐在員として働きました。
留学中は数えきれないほど面白いエピソードがあったんですが、 お話しするときりがないので(笑)

卒業後はソニーでどんな業務に就かれていたのですか?

留学中から、ソニーのヨーロッパ現地法人作りに関わっていました。
ヨーロッパで事業展開していた電気メーカーの買収にはじまり、 アントワープ、ユトレヒトでは流通会社を設立してソニーの世界進出の基盤をつくりました。
そしてNYで上場にすることを目指した会社の意向で、 長期的な戦略を立てる部署でも働きました。
上場に際して必要な書類の量といったら、目眩がするほどでした。
なにしろ、ソニーの世界中のすべての会社、子会社の資産を計算し、連結財務諸表を作成しなければならなかったのです。
国によって税金のかけかたも違いますし、これは大変な仕事でしたね。 これが70年代のお話です。

アメリカへも赴任なさっていたのですか?

はい。80年代にはいると、カリフォルニアのサンディエゴへ長期出張し、 カラーテレビ工場の立ち上げの際に起きた、トラブルを支援しました。
当時すでに組み立てはロボットが行っており、行程の多くはコンピューターで管理されていました。 しかし工場にはベルトコンベアが一本しかなく、その上で3インチのテレビも、30インチのテレビもつくっていました。
そのコンベアの上に必要な部品を素早く用意するためのシステムを設計した人間がいたんですが、 立ち上げの際にそれがうまく作動しなかったんです。
工場自体は完成しているのに、品物が出来上がらない。 そういう問題を解決する為に赴任しました。交通整理みたいなもんですね(笑

当時のアメリカの労働者や労働環境から、どんなことをお感じになりましたか?

サンディエゴの工場には沢山の出稼ぎ労働者達が働いていました。 4カ国語が飛び交うような現場で、なにしろ人の入れ替わりが激しい。
長期出張してから2年が経ち、プロジェクトが終わったので記念写真を撮ったところ、日本人以外のメンバーは全員違う人になってました。
そして私は当時、終身雇用が一般的だった日本ではまだ馴染みのなかった、 「ドキュメンテーション」の制作に打ち込みました。
流動する人材に対応するめのマニュアル、つまり業務説明書づくりですね。 この「ドキュメンテーション」文化はアメリカ特有だと思います。
そして仕事をきちんとシェアするということも、アメリカで学びましたね。 残業せず、きちんと定時で帰るのは、人の仕事を奪わない為でもあり、
雇用の機会を増やす役目でもあるわけです。 日本にずっといたら、気付かなかった発想でした。

順調にソニーでキャリアを重ねておられたのですね。

はい。しかし1980年代後半、私はソニーを離れる事になります。

なぜソニーをお辞めになったのでしょうか?

私の場合は一冊の本がきっかけなんです。その本が、僕の人生を変えました。
リチャード・バックの「かもめのジョナサン」という本で、
これは映画にもなっています。 実はアメリカでは「風と共に去りぬ」よりも興行成績が良い名作なんですよ。
まずその本に興味を持ったきっかけは、リチャード・バックの インタビューに甚く感激したからでした。
インタビュー記事の中で彼は、「この本は自分の未来へ書いた手紙だ」と言っていました。
同じ時間軸に存在する別の誰かに書くのが手紙だと思っていた私には、 別の時間軸へ向けて自分に手紙を出すと言う発想に衝撃を受けました。
それでまずは私も、未来の自分へ手紙を書いてみようとしたんですね。 ところがその手紙を書くのになんと3年も掛かってしまったです。
なぜなら、未来の自分に、「今何してる?」と聞こうとして、 今の自分はそれにまったく答えられませんでした。想像もできなかったんです。
というかそもそも、自分の未来を自分で決めようとしたことが、私にはなかったんです。
サンディエゴに行って工場を作りなさいとか、オランダに物流センター作りなさいとか
上から指示があれば動けましたし、それも仕事として、とても楽しかった。
けれど与えられた問題用紙がなかったら自分はなにが出来て、なにがしたいのだろうか?
その問いを考え続けるなかで、 人生は白い紙に自分で問題用紙を作らなければいけないという事に気付きました。
これがもの凄く重大なんです。
「自分で自分の人生の問題用紙を作りたい。」
それが、ソニーからの独立のきっかけです。

自分で自分の人生の問題用紙を作る。
そういう訓練が、日本人には本当に足りていないと感じますね。
宇佐見さんありがとうございました。
それでは次回の後半は、独立後のお仕事について詳しくお聞きしたいと思います。

2015-02-21 | Posted in gallery, intaviwNo Comments »