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インタビュー企画第7回 株式会社マーケティングハイ 代表 平林 周さん 中編

インタビュー企画第7回
株式会社マーケティングハイ 代表取締役 (コンサルタントプロデューサー)
平林 周さん インタビュー 中編を掲載させて頂きます。

前編はコチラから

 

平林 周 Shu Hirabayashi / 株式会社マーケティングハイ 代表取締役 (コンサルタントプロデューサー)


2013年11月に株式会社Marketing Highを設立。理念に『小さな企業にハイポジション』を掲げ、現在はスタッフ1名とともに奮闘中。コンサルタントの顧客獲得支援を通じて『10年で100億円の問題解決』をミッションとする。


http://marketinghigh.co.jp

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☆平林 周さんへのインタビュー 中編

すこし前半の繰り返しになりますが、桐山さんとの出会いはどんな形で訪れたのでしょうか?

桐山さんとの出会いは会社員時代に、
パソコンを教えるボランティア活動をしていたときに巡ってきました。
僕がその活動をはじめた時に、
セミナーで出会ったメンタルバランス研究所の宇佐見彰さんが
メルマガで告知をして下さったんです。
当時宇佐見さんのメルマガには3000人くらい購読者がいらいして、
そこから桐山さんを含む10名ぐらいの方から、
Excelの指導などのオファーを頂きました。
ところが実際に会社にお邪魔してみると、パソコンを教えるのもそこそこに、
話し込んでしまうことが多かったですね。
社長さんも多かったですし、独立するまでのお話を伺ったりしました。
そこでいつも、帰り際に聞かれたのが『web制作はできないのか?』という事でした。
あまりにも続いたので、さすがにその需要の高さに気付きましたね。
当時はSEでしたので、web制作は自分にとっては開拓しやすいものでした。
当時も今も、web制作会社は飽和状態だと思ってはいるんですが、
これだけ需要があるなら自分も独立できると感じましたね。

 

そこのろ、webマーケティングが注目されはじめて、
そこにビジネスのチャンスを感じたのですね。

 

そうですね。
丁度facebookなどのソーシャルメディアを企業が利用し出したのもこの頃でした。
facebookの初期設定からマーケティングまで、一貫して提供できたら大きなビジネスになる。
webマーケターになりたかったわけでは無いのですが、
ソーシャルメディアを使ったビジネスモデルやコンテンツ制作について考えるのが好きでした。
そんな時に、桐山さんが僕の『ソーシャルメディアがこれからの時代を変える』
という考えに共感して下さったんです。
桐山さんに一緒に事業戦略を考えたいと言って頂いたのは、とても嬉しかったですね。
桐山さんの会社及び、個人のfacebookの設定を任せて頂き、
同時に沢山の人を紹介して頂きました。
主に新橋で飲みながらなんですけれどね(笑)
その席で最も相談を受けた事が、
『自社のwebをもっと上手に使う事はできないか?』ということで、
それは後の『web集客』に繋がる新たな需要の発見でした。
僕はソーシャルメディアへの入り口を作り、
利用運営していくという顧問契約のプランを考え、
セールスをかけるとすぐに複数の契約を頂くことができたんです。

 

そして桐山さんの『平林くんはもっとやる男だと思ってた』という一言で
会社をお辞めになる決意を固めたのですよね。
それからは具体的にどんなお仕事をなさっていたのですか?

 

その後、会社を辞めて10日目にとある著者の方に出会い、
パートナーとしてソーシャルメディアで集客をする仕事を始めました。
その方は複数の著書を持っており、それに伴ったセミナーを開催していました。
初めはweb集客だけでなく電話でのアポや、
とにかく知り合いを呼んだり・・・とても苦労しました。
最初は2000~3000円のセミナーをやっていたんですが、
初めて8000円のセミナーをやったときに、あまりにも集客が悪くて、
コラボレーションで講演をお願いした著者の先生に、
「もう二度と君とは仕事をしない」と言われてしまったこともありました。

 

厳しくも、平林さんにとって必要なハードルであると理解しての
お言葉だったように感じますね。

 

そうですね。愛のあるお叱りでした。
その失敗から、
自分自身がもっと質の高いセミナーを受けてみなければならないと思い、
はじめて年間で40万円するweb戦略のセミナーを受けました。
そこで、結局本当に集客のできる質の高いセミナーは値段も高額であるということに気付いたんです。
それまで僕は8000円のセミナーを高額セミナーだと思っていたんですが、
40万円払って勉強したことで、マインドブロックが外れました。
相応のお金を払って初めて、真剣に学びたい人、本気で教えたい人に出会えるのだとわかりました。

そしてプロモーションをしていた著者のセミナー1期生を3万8千円で募集することにしたんです。
告知サイトを作ったり、只のセミナーの説明文でない、
熱いセールスレターを書きました。メルマガ広告も活用しましたね。
するとなんと開催一ヶ月前に満席になったんです。
それは本気で学びたい人の層に、本気で訴えかけるという事に、成功した瞬間でした。

 

その成功体験で得られたこととは、どんな事だったのでしょうか?

 

自分のビジネスの強みが理解できてきました。
それは営業的感覚を持ち合わせながら技術的なこともできると言う事です。
たとえば『webを使って集客をUPさせよう』というセミナーに事業者が参加して、
自社のwebを教えられた戦略通りに自分で変更できるかというと、
まぁ出来ないですよね。
それでweb系の業者に発注しても余計な工数とお金がかかったり、
そもそもこちらのやりたいことが伝わらなかったり・・・。
僕の場合はそれが全部自分でできてしまったので、
セミナーで学んだweb戦略はどんどん実装して試しまくりました(笑)
ですから成長は圧倒的に速かったんです。
様々なセミナーから知識を得て、実践して、
自身がプロデュースするNさんのセミナーへの集客に利用する。
結果がでなかったらすぐ自分で切り替える。
そうしているうちにwebマーケターとして着実に自信がついていきました。

 

その後、ご自分自身が登壇されるようになり、
そこから会社設立へと続いたきっかけはなんだたったのでしょうか?

 

結局、プロモーションにはセミナー5期生の集客まで関わり、
自分が仕事で生み出せるお金が着実に増えて行くことを実感できました。

お誘いを受けて、
自分が初めてやったセミナーはfacebook広告についてお話したのですが、
有名な著者の方などが沢山来て下さいました。
自分のシナリオ通りのセミナーを自分自身でやり遂げたとき、
自分のビジネスをやっていきたいと強く感じました。
それが会社を設立への大きなきっかけでしたね。

そしてweb制作とマーケティングコンサルティングを
自分のビジネスの主力商品とし、もっと本気でクライアントと関わりたいと思い、
会社を設立することに決めました。それが2013年11月の話です。
 

平林さん、ありがとうございました!後編へ続きます。

2015-01-16 | Posted in blog, gallery, intaviwNo Comments » 

 

インタビュー企画第7回 株式会社マーケティングハイ 代表 平林 周さん前編

インタビュー企画第7回
株式会社マーケティングハイ 代表取締役 (コンサルタントプロデューサー)
平林 周さん インタビュー 前編を掲載させて頂きます。

 

平林 周 Shu Hirabayashi / 株式会社マーケティングハイ 代表取締役 (コンサルタントプロデューサー)


2013年11月に株式会社Marketing Highを設立。理念に『小さな企業にハイポジション』を掲げ、現在はスタッフ1名とともに奮闘中。コンサルタントの顧客獲得支援を通じて『10年で100億円の問題解決』をミッションとする。


http://marketinghigh.co.jp

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☆平林 周さんへのインタビュー 前編(聞き手:桐山一人)

 

Q 子供の頃はどんなお子さんでしたか?

 

A そうですね、自分の世界を創るのが好きでお山の大将的な存在でしたね。クラスの人気者という感じではないですが、一部の友達と深く付き合うタイプだったと思います。

勉強はそれほどできませんでしたが、議論は誰よりも強く妙に自信があったことを覚えています。「議論で勝てるし、勉強なんてできなくてもいい」と自分に言い訳してました(笑)

 

 

 Q 少年時代の思い出は何かありますか?

A 中学3年の時の修学旅行の際に、私服から学生服に着替えが必要な場面で、先生が「女子はあそこの館で着替えて来てください。え~と、男子はその辺で着替えとけ」という発言をされたことがありまして、その際に自分自身の中で、不公平感というか、

女子と男子の差別のようなものを感じて、修学旅行が終わってから、その発言を校内で問題にして、その先生を問い詰めたことを覚えています。

その時は、学校で多くの男子生徒に「ヒーロー」のような扱いを受けましたね。(笑)

 

昔から正義感が強かったように思います。

 

そのあたりは母から大きく影響を受けていると思います。母は政治家になりたかったような社会意識の高い女性で、子供の僕に対しても時事問題や社会問題から政治や経済まで色々な議論を交わしていました。

今の僕の仕事へのモチベーションは、業界の矛盾に対する怒りや、良いコンテンツを持っていて売れるべき人が売れていないことに対する憤りなど、正義感から来るものが多いのですが、それは母から受け継いだ思想なんだと思っています。

 

Q 大学時代は、どのような活動をされていましたか?

 

A 大学生の時は学生団体を運営していました。経営者に経営哲学をインタビューして、それをネットラジオで配信するサークルの代表をしていました。

インタビュー先の経営者と出会うために、経営者の集まりによく参加していました。経営者を探して直接インタビューを依頼し、もう一方では、一緒にインタビューに行く学生仲間を勧誘していて、今振り返ればビジネスマンのような活動をしていたように思います。

たくさんの経営者からインタビューを通じて、様々なことを学習させていただきました。すべての経営者が「人が大事だ」という旨のメッセージをくれたことが印象的でした。

 

実際の経営者の方々の哲学が真っ白な学生である自分に刻まれたことは、本当にいい経験ができたと思っています。

 

Q 大学を卒業されてから、普通に就職されたのですか?

 

A はい。大手のソフトウエアのベンダーで1年半の間システムエンジニアとして勤務していました。

多くの経営者から「起業するなら営業を経験しておけ」と言われていたこともあって、営業志望で入社したのですが、開発に配属されてしまいました。

正直、仕事には全くやる気でませんでしたね。

転職したいとは思わず、なんとか独立できないかといつも考えていました。しかし、当時の自分は何のスキルもなく、どうやったらビジネスを始められるのかが全くわかりませんでした。

サラリーマン時代は、ずっとモヤモヤしていましたね。

 

Q そこから独立して起業したきっかけは何だったのですか?

 

A きっかけのきっかけですが、3.11の東日本大震災です。

 

ニュースなどで東北の各地域での悲惨な現状を知り、そのタイミングに僕と同年代のたくさんの若者たちがボランティアに立ち上がっていました。その姿を見て「自分も何かやろう」と決心しました。

 

でも、自分が現地に行ったところで何を手伝えるわけでもなさそうでしたし、寄付をしたところで大した貢献にならないと思っていました。「まずは自分の身近なところからでも何か始められないか」自問するようになりました。

 

そこで思いついたのが「パソコンを教えるボランティア」です。

 

僕は元々パソコンが苦手だったこともあり、社内ではダメダメのエンジニアでした。とは言え、一応エンジニアをやっていたので、一歩外にでるとかなり詳しい部類に入ると思います。

 

上を見ればキリが無いけど、下を見てもキリがない。

いつか一流になったら始めようと思っていてはいつまで経っても動けないので、覚悟を決めてボランディアを始めました。

 

はじめは「自分より詳しい人から問い合わせが来たらどうしようか?」とビクビクしていました(笑)

 

しかし、始めてみると僕が思っていたような難しい質問はなく、もっともっと初心的なことでつまずいている現状を知りました。

 

この経験が今の僕のビジネス観の土台を作りました。

「まずやってみる」ができないと、モノゴトは前に進まないと思っています。

 

ボランティアを続ける中で、僕に起業のキッカケを与えてくれる人物と出会いました。

 

それが、ノマド・グローバルの桐山さんです。

 

桐山さんは僕のことをとても可愛がって下さり、よく飲みに連れて行って頂きましたし、経営者の飲み会などにも招いて頂きました。

 

当時の僕はビジネスプランもほとんどなく、起業して食べていけるか不安でいっぱいでしたが、桐山さんと話す中で覚悟を決めることができました。

あの時、会社を辞めて起業する決断ができなければ、今頃どうなっていたことか。きっとまだモヤモヤしながらサラリーマンをしていたかもしれません。

 

桐山さんに後押しいただいたことはとても感謝しています。

余談ですが、桐山さんは僕の結婚式にもご参列いただき、乾杯の挨拶をお願いしました。

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次回、現在のコンサルティングのお仕事の内容について や、

そこに行き着くまでのストーリーを詳しく語って頂きます。

次回をどうぞお楽しみに・・・。

2014-12-20 | Posted in blog, gallery, intaviwNo Comments » 

 

インタビュー企画第6回ワインライフプロデューサー ミホヒラノさん

インタビュー企画第6回ではワインライフプロデューサーミホヒラノさんに
お話を伺いました。

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ワインライフ代表 ミホヒラノ
http://www.winelife.biz

・ワインライフプロデューサー
・JSA認定ワインエキスパート
・Wine& Sprit Education Trust(英国)Advanced Level

ワイン輸入販売商社株式会社道上商事とフランスでの体験を基に、
日本のライフスタイルに合わせた手軽に取り入れられるワイン生活を提案中。
気取らず型にはめないワイン観をネットラジオやネットメディアで展開中。

メディアでの掲載:
日本ビジネスプレス(2011年12月〜2012年8月)
ぴあ総研、DOMANI、毎日新聞、日本経済新聞

特に初めての方にワインの楽しさを伝えることを使命としている。

 

 

 

◎現在はワインライフプロデューサーとしてご活躍のヒラノさんですが、
どんな幼少期を過ごされたのでしょうか?

私は総合商社に勤めていた父の仕事の関係で、小学校時代の多くを海外で過ごしました。
小学校2年生から4年生まではフランスに、それから6年生までモロッコに住みました。
この時期は私の”自分らしさ”の核を作ってくれた、とても大切な時間でした。

特にパリでの思い出は凄く記憶に残っています。セーヌ川岸のアパルトマンに住み、
四季折々の景色や、歴史を感じる美しい建物が、生活の中に常に在りました。

こんな風にお話すると、皆さん『うらやましい』って言ってくださいますが、
当時の父の会社では先進国の駐在に対しては、ほとんどサポートがありませんでした。
安全で日本人社会のある高級住宅地に住むのは若い夫婦の家計には大変だったようです。
友達の家の車がベンツやBMWのピカピカのドイツ車でも、我が家はよく故障する中古のフランス車でしたから。
家賃は1980年代前半で20万円以上もしましたしね。

◎お小さい頃に特別な体験をなさったんですね。
流石にまだワインはお飲みになってないと思いますが・・・
ご縁はその頃からあったんですね。

ワインとの出会いはまだまだ先ですよ~。
パリでは主に日本人学校に通学しました。
官僚や大手企業の子女がほとんどで、入れ替わりが激しい為に、いじめも無かったですし、
日本の学校と同じカリキュラムでとても平和な時間でした。
少し違うのは弁論大会などでの小学生の視点のスケールです。
先進国の役割や、冷戦構造の解決策を模索する生徒も普通にいました。

5年生から6年生の間滞在したモロッコでは私立の現地校に通いました。
こちらはうって変わって多国籍な学校でした。
サンリオの文房具はしょっちゅう盗まれるし、教師に媚びる生徒もいるし、
言葉は通じないし、試験では進級もかかるし、宿題は多いし、
他にも日本からの通信教育もあるし、漢字は難しくなるしで大変でした。
僻地の功名か、日本語に飢えていたおかげで漫画だけでなく日本の新聞まで読むようになりました。
学校では主張できる言語力がなかったので、自己主張の場としてテストでは常に1番を守りました。
そういうと秀才に映りますが、ただの丸暗記なんです。
文法もパターンだけ覚えれば解けるので、
テストは満点でもフランス語は2年弱ではさっぱり最後まで解りませんでした。
いちいち辞書を引けば覚えたんでしょうけれどね。興味ないことに面倒くさがりなのは生来です。
今思えば、理解していないことを、よくあれだけ膨大に暗記しまくったな〜と。
反対に好きなものにはしつこくて、日本の歴史は漫画のおかげで、
穴があくほど何度も読んで帰国するまでにすべて覚えられました。
記憶力に自己を支えられていた2年でした。残念ながら、今はその記憶力は何処へって感じです。

3年間フランス、また2年間モロッコに行くことができた御陰で、
フランスにかぶれることもなく、異文化であるイスラム圏にも触れることができたのは大きな収穫でした。
一歩置いた目線で世界を見ることができるようになったからです。
国同士の争いや、歴史認識の問題など、授業で習うことが必ずしも正義ではなく、
実際にその国の人と触れ合う中で感じるものを大切にしたいと思うようになりました。
独特の国際感覚をもつことができたのは小学校時代の経験のおかげです。

◎小学生でそんな国際感覚を持てるなんて、素晴らしいですね。
でも同時に、帰国なさってからの事が心配になってきてしまいました。

まさにそうなんです。
中1で帰国してからの日本での学校生活は戸惑うことばかりでした。
ちょうど反抗期と重なっていましたし、優等生を装いつつ、
心の中は反骨心が渦巻いていました(笑
日本の厳しいばかりで意味不明な校則には疑問だらけですよ。
モロッコでは大きなピアスをつけて派手でも優秀な生徒が沢山いましたからね・・・。
ただイジメは怖かったので、主張もせず、ひたすら目立たないように努めました。
しかし、子供ながらに順応しようと相当なストレスがかかったようで、
偏頭痛には悩まされました。

高校はICU(国際基督教大学高等学校)に幸いにして受かりました。
私と違い英語ペラペラ族の帰国子女に囲まれながら、
自由で楽しい3年間を過ごしました。
(これはこれで衝撃を受けて、英語の苦手意識が10年位抜けませんでした)

大学は白百合女子大学の仏文学科に進学しました。
奇しくもこの進学がまさに神様のお導き?で
現在の私を運命づけることになります。
フランス語を話せるようになりたいと、
3年生のときにフランスに半年間留学しました。

◎成人してから再び訪れたフランスは如何でしたか?

日本語の古文のように聞き取れて読めるけれど
解らない存在だったフランス語が、
母国語のように耳に入ってきたときの感動は忘れられません。
「あ!日本語みたいに解っちゃった!」みたいな。

懐かしい、変わらないパリの街並や、街のもつ
匂いや音と色にはとても感動しましたね。

そして”ワインとの本当の出会い”は、まさにこの時にあったんです。
といっても、フランスでは生活と共に自然にワインがあって、
衝撃的な出会いっていう訳ではないのですが。
ロワール地方の地元のワインを楽しみ、
純粋な好奇心が満たされると、フランス語の勉強も一層楽しくなりました。
ホストファミリーと一緒に、決まったワイナリーに1年分のワインを買いに行き、
ポリタンクにワインを詰めて買って来て、ワインボトルのラベルも自宅で貼るんです、そのほうが安いから(笑
そして地下のカーヴにボトルをならべて、それを毎食時出してきて飲むんです。
彼らにとって普通のことが、私には凄く刺激的でした。
白ワインから入って、赤ワインの軽いものから順番に飲めるようになりました。
ボルドーにも旅行し、知識が増えていくと、それに比例してワインと触れ合うのがどんどん楽しくなりました。

◎帰国されてから、就職等でワインと関わることはあったんですか?

帰国したらワイン関連会社に就職したいと思っていたんですが、
当時は景気が悪く、女性の新卒採用なんてなかったんです。
それで次に興味のあったインテリアデザインの方面から、工房のある額縁屋さんにフルタイムで職を得ました。
額縁屋さんでは一生懸命働いてたんですが、途中で会社が傾いてしまって
その後はジェトロや電通のシンクタンクで派遣OLをしていました。

◎その頃は少し、ワインとは離れていらしたんですね。

そうですね。はじめは、接客から製作まで携われる額縁業で好きなことを仕事にしようとしました。
世の中の情報化が一気に進んだ時代だったので、次第にOAスキルがないことに焦り、
お給料をもらいながら習得できる事務職を探そうと。
当時は主婦業もしていたので、社会や世界との繋がりを感じられないと不安になっていたように思います。
特に興味のない分野の仕事も、自分なりの面白さを見つけて、
とにかく頑張って働こう、社会と繋がっていようと必死でした。

30歳の時に思い立って一度キャリアをリセットし、実家に帰ってまた仕事を1から探しました。
フランスのランジェリー会社に就職しましたが、
こちらも時代故か翌年撤退。気に入っていた職業でしたし、周りからは天職と評価されていただけにショックでした。

医学学会の事務局、ケーブルTV会社、フランスの証券会社など、
本当にいろんな会社を渡り歩いて色んな業務を経験しました。

ところが、いつも自分に自信が持てませんでした。
こんなに頑張ってるのに、何物にもなれてない自分。
時代を憂いても仕方ないですが、行く先々で困難な環境に当たってしまう。
母親には「アナタは運が悪いから」としょっちゅう言われ、ますます落ち込むわけです。
自己否定されているような気分になってしまい、全部乗り越えているにも関わらず、
完遂できない自分を責めてしまっていました。いくつになっても翌月のやりくりが不安な状況で、
周りと比べるとあまりに情けないと思ってしまっていました。報われないな〜って。

◎『報われない』という気持ちを、どうやって新しい一歩に繋げたのでしょうか?

私の場合は起業を決める前に、最後に働いていたのが小さなワイン会社でした。
そこではワインの基礎を教えていただき、正義感溢れる社長のもと沢山のことを学びました。正社員だったんですけれど、多様化する日本のワイン市場、他業界からの参入、古い業界の体質と、自分がのびのび働く環境をつくるのが難しく思えてきたのです。

それなら自分で何か起業しようと決意しました。
社会人になってからボーナスももらった経験がなく、雇われていても会社に守られているという感覚を得たことがほとんどなかったことが幸いしました。失って怖いものが一つもなかったからです。

起業セミナーの受講と多忙極めるワイン会社勤務の両立は無理と、
覚悟を決めてワイン会社はスッパリ辞めました。
もう十分頑張った。様々な業界を経験もした。そういう実感がすでにあったんだと思います。
身軽な派遣で働きながら準備すればいいと思ったんです。

◎そして満を持して起業の道に進まれたのですね。

起業を決めたこの頃から、
「待ってました!」と言わんばかりに、ワインの世界に引き寄せられることになるんです。
今まで良い意味で遠回りをしたからでしょうか。
起業セミナーを通じて出会う人にも、友人達からも、いっぱい背中を押してもらって、
ワインの講演依頼を頂いたり、日本ビジネスプレスという雑誌でワインの連載を持たせて頂いたり、
どんどん世界が輝きだしました。
しかも、今までの業務経験もすべて活きてくるので、報われなかったと思っていた過去にも今では心から感謝しています。

派遣をしながらワインセミナーや執筆を3年続けることで
かなりワインの勉強も深まりましたし、可能性がますます広がりました。

◎ヒラノさんのワインセミナーの特徴とは、どんなものなのでしょうか?

私のセミナーの特徴は、食事とワインを楽しみながら、初心者の方も詳しい方も一緒に楽しめるようになっています。
ワインをオタク級に極めるのではなく、まず楽しさと深さ体感してもらいたいからです。
『一杯のワインでこの条約が決まった』というような、歴史の1ページと共にあったワインのお話など、
ワインに関わるストーリーを皆さんと一緒に楽しみたいのです。
それからコミュニケーションとしての実用性をお伝えして行けたら良いなと思っています。
ワインはミュニケーションの潤滑油ですから。
どこにあっても社交的で明るいお酒で、西洋社会でもそれは同じ。
過去には戦争の後に負けた国が勝った国をワインでめちゃくちゃおもてなしして、
献上する土地を減らしてもらったなんていう史実もあるほどなんです(笑

◎ワインのセミナーなど、ワインと楽しく関わる機会自体が、今の日本ではまだまだ少ないですよね。
どうしたらワインを身近な物に感じていただけるでしょうか?

そうですね。やはり若い人にワインの楽しみ方を知っていただきたいので、
これからは大学の授業の一貫で、ワイン講義の講師をしたいと思っています。
ワイン文化論とか、絶対面白い講義ができると思うんですよ!

同じように、会社でのワインのマナー研修などにも取り組むつもりです。
企業のグローバル化が進むなかで、ワインの教養は必須です。
宗教的な観点からも、キリスト教とワインは関わりが深いですし、
ワインという切り口で世界中の人とお話することができる人材を育てれば、
企業の大きな力になるでしょう。ある意味英語と同じ位必須です!
実は、クライアントの性格まで、好みのワインから分析できるんですよ。

◎ヒラノさんのセミナーはいつも満員とお伺いしました。
集客の秘訣があったら教えて頂けますか?

セミナーの集客は、正直あまり積極的にできていません。というのもお客様が次のお客様を連れて来てくださるからです。
何回来ても楽しめるように、セミナーのテーマは季節やイベントに合わせて変えています。
セミナーはワインの広報活動だと思っていて、それ自体で利益がでるわけではないんですね。
しかし、そこでコミュニティやコンテンツに広がりが出来、次の仕事のフェーズに確実に繋がって行くんです。
講演依頼や執筆依頼には、ひとつずつ丁寧に答えていきたいと思っているので、
企業の研修担当の方や、商工会議所の方、大学の関係者の方など、ご連絡お待ちしております(笑

◎これからワインをはじめてみたい!という方に向けて、ぜひメッセージをお願いします。

一杯のワインでリラックスしながら人と寄り添うと、
とっても人生が楽しくなります。
ワインはハイソなもの、と思われがちですが、
こう思ってみて下さい。

『ワインは、お味噌汁』

そう、ご飯のお伴なんです。
西洋では実際にお水に近いものなんですから。
そして何よりビジネスシーンで頼れる武器になります。

気負いせず、ワインの楽しさや面白さ、コミュニケーションの潤滑油としての使い方を
みなさんと一緒に分かち合っていきたいと思っています。

ぜひ一度、セミナーに遊びにいらしてください!
楽しい時間を共有できたら嬉しいです!

◎ヒラノさん、ありがとうございました!

2014-09-16 | Posted in gallery, intaviwNo Comments » 

 

インタビュー企画第5回 Kanglo Corporation 代表取締役社長 藤井利幸さん

インタビュー企画第5回では
22世紀へと続く人と組織の革新・変革を支援するイノベーションコンサルティング集団
『カングロ・コーポレーション』の代表である藤井利幸さんに
ご登場頂きました。
コンサルタントとして企業のサポート事業はもちろん、
プレイヤーとしてアフリカでの事業を実現させた藤井さんの、
素晴らしいビジネスセンスを学ぶ事の出来る貴重なインタビューとなりました。

fujii

カングロ・コーポレーションの公式サイト
http://www.geocities.jp/kanglocorp/

藤井利幸さんプロフィールはこちら
http://www.geocities.jp/kanglocorp/profile1.html

 

☆小さい頃はどんなお子さんだったのですか?

僕は茨城県東海村で生まれました。
周りには畑や田んぼがたくさんあったので 自然に外で遊ぶのが好きな子供になりましたね。
とくにガキ大将という訳ではなかったですが、活発だったと思います。

☆スポーツや部活動はなさっていましたか?

僕は野球が大好きで、大学までずっと続けました。
外野を守って、バッティングに力をいれていましたね。
普通の野球少年と少し違ったことは、僕は高校の頃から指導者志望だったことです。
つまり、監督になりたかったんです
大学は筑波大学に進学したのですが、3年目からは2軍の監督をさせていただきました。
筑波大は大学野球界の中では強いチームでしたから楽しかったですね。

☆確かに珍しいですね。
大学の授業でも教育者・指導者としての勉強を積まれていたのですか?

そうですね。
大学の授業で教育学を学びながら野球部の監督を経験して、
指導者としての世界を広げていきました。
大学生活後半には教育実習もして、教員免許も取りました。
しかし僕の場合は教育実習をきっかけに企業への就職に方向転換したんです。
ずっと同じ授業を40年とかやると思ったら、僕は違う事がしたいなと思いまして。

☆それで卒業後は就職なさったんですね。
どんな会社でどういったお仕事をなさっていたのですか?

僕は1992年に株式会社リクルートに就職しました。
バブルがはじける直前でした。
リクルート社はとても面白い会社で
とにかく沢山の経営者の方に会う事ができるのが魅力でした。
人材総合サービスという部署で、
お客様の会社の採用計画を立てるのが僕の主な仕事でした。
競争が激しい会社でしたので、当然負けん気も強くなりましたし、
当時は社内報で全国の営業担当のトップに載ってないと嫌だったんですよ。
働かされている感覚がなかったので時々会社の床で寝泊りするくらい打ち込んでいました。
今の時代ならブラック企業だなんて言われてしまいますね(笑
独立するまでの12年間は、とくかく鍛えられました。

☆12年リクルートの社員として走り続けてきたなかで、
独立に至ったきっかけはなんだったのでしょうか?

きっかけは 僕自身が経営のプレイヤーになりたいと思ったからです。
リクルートの仕事というのは、お客さまの経営支援なんです。
つまりプレイヤーではなくサポーターなんですよね。
僕はどんな上場企業だろうと社長に会うようにしていましたから、
社長によく言われたんです。
お前にプレイヤーができるのか?とか、
人材面ではスペシャリストだけど、経営はできるのか?とか。
確かにそういう経験が僕にはありませんでした。
でもチャレンジしたい気持ちは勿論ありました。
そこで当時お客様だったある会社の事業再生を任されたことをきっかけに
リクルート社を卒業しました。

☆サポーターからプレイヤーになられたわけですね。

はい。プレイヤーとしてちゃんと自分の会社を創ろうと決意し、
事業再生のコンサルティングに特化した会社を創りました。
といっても法人化はもう少し先です。 当時から僕の会社は 金融面ではなく、
よりよい組織作りや営業戦略からのコンサルを売りにしていました。

☆独立されるときにご家族から反対されたりしませんでしたか?

35歳で独立しましたが、ご家族にはとくに反対されませんでしたね。
妻は僕の性格をよくわかってくれているんでしょうね。
普通ならば大きな会社から独立するなんて、
反対されても仕方が無いと思うんですが・・・。
本当にありがたいことです。

☆独立後のお仕事は順調でしたか?

事業再生のコンサルティングは3年やりました。
出来る限り会社の内部に入っていって、結果もしっかり残す事ができました。
そしてもっと扱える案件を広げたいと考えて、
JDパワーという顧客満足度調査を行うアメリカの会社の
日本法人で修行をさせていただきました。
この会社を修業先に決めたのは、
お客様の声を会社の改革に反映する方法論を見つけたいと感じたからです。

☆そして修行を終えていよいよ2010年に法人化されたんですね。

はい。2010年、正式にカングロ株式会社として法人化しました。
カングロというのは、 感謝for the グローバルという言葉を短縮した造語です。
日本法人のほうではイノベーションコンサルティングを標榜して、
企業の変革支援を行っています。
事業再生というとネガティブなイメージを持たれる方も多いと思いますが、
そうではなく、企業として時代の変化に対応していくことや
組織の革新能力を伸ばすと言うような アイデアをもってやっています。
顧客は法人のお客様で、沢山の顧客を抱えることはせず、
常時2~3社をじっくり見させて頂いています。

☆藤井さん流の経営戦略についてもうすこし詳しく教えて頂けますか?

みなさんもご存知の通り、
リーマンショック以降日本にも多大な経済的ダメージがありました。
そのときなにかインパクトのある経営戦略のケーススタディを
打ち出したいと考えて、 僕が研究対象としたのが
ラスベガスのザッポスという靴のオンラインショップの会社でした。

☆なるほど。リーマンショックにも負けない会社の秘密を探られたのですね。

実際にラスベガスに行って会社を見て、その組織のあり方には心酔しました。
ザッポスは凄くユニークな会社で、”社員の幸せが第一”という考え方が
一番の経営戦略なんです。
そこに集中すると自然と売り上げも高まると。
自分の生活が楽しくなければ他人の幸せ、
つまり満足を本気で願う事はできないわけですよ。

☆確かにそうですよね。自分が幸せでなかったら、
良いサービスを提供し続ける事は難しいです。義務感で仕事をしてしまいそうです。
でも義務感では本当に必要とされていることを見失ってしまいそうです。

その通りです。
加えて、特にオンラインショップ経営は、差別化がとても難しいんです。
人を介さないことがオンラインショップの便利な所な訳ですから・・・。
しかし、 それに対して”顧客満足を本気で願う会社”が差別化の為に選んだ選択が、
”コールセンターの充実化”なのです。 つまり、ベタベタな人間力なんですよ。
オンラインショップなのに人間力?と感じると思います。
でもそれが”社員の幸せが第一”を掲げてきた会社だからこそ
発想できた戦略なんだと思います。

☆なるほど。本当に必要とされているのはオンラインで購入した靴の
アフターサービスなのだと、 気付いたんですね。

こうしてザッポスはコールセンター
(ザッポス社ではカスタマー・ロイヤルティ・チームという)
の充実にものすごく大きな力を注いだわけです。
電話をかけたお客様が本当に感激したっていう
『WOW』なエピソードが実際に沢山あって。
「すごい会社」があると、アメリカで一気に噂が広まったんです。

☆実店舗でなく、オンラインショップが口コミで広がるというのは凄いですね。

ザッポスはたった10年で1000億円企業に成長し、
2009年にamazonに1200億円で買収されました。
僕はこのビジネルモデルからは学べることが沢山あると確信しました。
さっきお話ししたことに繋がりますが、
amazonができるだけ人を介さずに商品を届けようとする
システム充実型のオンラインショップであるのに対し、
ザッポスはベタベタに人を介してサービスを充実させる会社なんですね。
ただ、顧客満足度を高め続けるという目標は当時から両者とも一緒だったそうです。
ですから元々ライバル会社であったamazonが、
ザッポスから学ぼうとしたその結果が、
1200億円という大金での買収だったのだと思います。

☆”社員の幸せが第一”という考え方は
実際に社内で学ばれた藤井さんにも感じられましたか?

勿論です。 5000人もの社員が月曜日が待ち遠しいというんですよ。
それだから僕はザッポスという会社のマネージメントや経営のあり方などを
日本にぜひ紹介したいと感じたんです。
そしてザッポスがなんで成功したのかコンサルタントの目から検証し、
日本企業に移植したいと考えました。

☆具体的にはどのように活動されているんですか?

1つは日本の経営者を実際にザッポスを見せに、
ラスベガスに連れて行くという研修ツアーをやっています。
年3回くらいですが色んな会社の方に参加して貰っており、大好評です。
2つ目はセミナー『イノベーションサロンZ』です。
これは、アメリカの会社で成功した事は
そのままでは日本企業では通用しないといわれるから
ザッポスのやり方に近い日本の企業を研究しようという試みです。
ZはザッポスのZなんですよ。
ザッポスのような精神をもった会社が
世界にイノベーションを起こすのだと僕は信じています。

☆セミナーや研修ツアー以外にはどんな事業をなさっているのですか?

セミナーや研修ツアー以外には、企業の変革能力を高めるための
コンサルティングメニューを持ちそれを提供しています。
加えて、プレーヤーとしてアフリカを舞台にした事業も行っています。
アフリカに興味を持ったきっかけをよく聞かれますが・・・
まず僕の場合は小さい頃から祖父の影響で、
人の役に立ちたいと言う気持ちが強く在りました。
そして小学校3年生の頃、飢餓に苦しむ子供の広告を初めて見た時の衝撃が、
今に影響していると思います。 本当に今でも忘れられません。
それはナイジェリアで250万人もの人たちが餓死したという大変な事件(ビアフラ戦争)
を扱った広告だったんですが、 当時そのことは世界中のだれも知らなかったんです。
隠された残酷な真実に対して、
子供心に「おかしい、なんなんだこれは」と思いました。
そして大人になってアフリカに事業を通じて関わりたいと思いました。
早稲田の大学院を出たナイジェリア人と出会ったこともきっかけになり、
昨年カングロのアフリカ現地法人を創ることができました。
彼は非常に優秀なエンジニアで、
地元に帰って大統領になりたいと思っているような ガッツもある人物でした。
こんな風に良い出会いにも助けられて、今の僕があるのだと思います。

☆アフリカでの事業内容を教えて下さい。

日本の技術でアフリカの水問題、エネルギー問題、
食糧問題、環境問題を解決するというのが主な事業内容になっています。
収益化はこれからですが、他の事業から資金を注入してで成長させている所です。
模索しながら運営するなかで、
機械モノを輸出するのは大変だということが分かってきました。
そこで今はナイジェリアで養蚕事業を進めています。
ナイジェリアはキャッサバ(タピオカともいう)が世界最大の生産地で、
その葉を食べる蚕がいるんです。
その蚕を育てて繭や蛹などを有効利用する事業を、
既にナイジェリアの2つの州からオファーを頂いて、
現地の雇用創出と産業化プロジェクトとして実施しているところです。
この事業にたどり着いて、
やっとプレイヤーになれる仕事ができたという実感があります。

☆多岐に渡る事業内容に驚くとともに、こうしてお話を御伺いすると、
子供の頃から今に至るまで、すべてがきちんと繋がっていること、
その実現力に感動してしまいました。

小さい頃に世界の真実に対する衝撃を持った事、
優しい心を持った尊敬する祖父からの教え。
それらが今の自分を形作ったのかもしれません。
企業研究から多くを学び、
他社の成長を助けるという今までの僕の仕事があったからこそ
今こうして他国への助けが事業として出来るようになったのだと思いますし、
海外での企業研究にしても、
リクルート社で飛び込み営業をしていた経験を海外でも発揮できたから
成功した事ですし、こうして振り返ると一つ一つの経験が
未来の自分に繋がっていることを感じます。
これからも真実ときちんと向き合いながら、
学ぶ事を止めずに、人の役に立つ事業をやっていきたいと思います。

☆藤井さんありがとうございました!

2014-09-16 | Posted in gallery, intaviwNo Comments » 

 

インタビュー企画第4回 KM Pacific Investments Inc.社長 枡田 耕治さん

インタビュー企画第4回は、KM Pacific Investments Inc.代表取締役社長 枡田 耕治さんにご登場頂きました。

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KM Pacific Investments Inc.代表取締役社長 枡田 耕治、CCIM、CPM
KM Pacific Investments Inc. kmpacific.com
Facebook KM Pacific Investments Inc.

1969年(昭和44年)7月22日に神奈川県横浜市に生まれる。
その後幼児期に現住所の藤沢市に移る。
13歳でカナダのビクトリアへ留学生として、
セントマイケルズ・ユニバーシティースクールへ転校。

1990年より北米西海岸のオフィス・ポートフォリオの運営・運用に携わる。
前職のAMB プロパティー・ジャパン(現Prologis)では、
アセットマネージャーとして
約34万平米の自走式大型複合倉庫(365億円相当)の
物件を運営、ポートフォリオを運用。
Certified Commercial Investment Member及び
Certified Property Managerの称号を取得。

学歴はワシントン州立大学(米国シアトル市)にてExecutive MBA、
パデュー大学(米国インディアナ州)にて経営学学士を取得。

趣味はラグビー、ヨットとジョギング。

 

 

 

◎現在カナダを中心にグローバルにご活躍の枡田さんですが、
海外進出のきっかけはなんだったのでしょうか?

僕は神奈川県の横浜で不動産業を営む家系のもとに生まれました。

父は当時の日本では圧倒的にグローバル意識が強く、
1970年代にはアメリカに不動産投資で進出していました。
昭和一桁世代で生まれた父親ですから、
本当は自分も留学して学びたかったという夢があったんだと思います。
その夢を我々息子二人に託す為、僕が中学2年、弟が小学校卒業時に
カナダのボーディングスクールに転校しました。

◎14歳で留学!凄いですね。お母様に反対されたり、
行きたくないと言ったりしなかったんですか?

我が家は父を中心とした封建的な家庭でした。
先々代は枡田組という建築屋の棟梁でしたから。(笑)
母も最初は反対しましたが、
仕方なく賛成してましたね。
僕は友達と離れるのが嫌だったので、全く行く気はありませんでした。
出発迄の5ヶ月間は父親の顔を見るたびに、ひたすら拒否していました。(笑)
でも最終的には「兄貴として」行く事になりましたけどね。
弟のほうは事の重大さがわかっていなかったのか、
割とあっけらかんとして、素直に賛成して行く気満々でした。
ただその分、彼の方が実際に行ってからのホームシックが酷かったようでしたね。

でも今ではこの経験が人生最高のステップアップでした。

◎実際のボーディングスクールでの生活はいかがでしたか?

ボーディングスクールというのは全寮制の寄宿学校なんですが、
英語が出来なかったので、まず全く言葉が通じなかったですね(笑)

今でも覚えているのは、学校の
寄宿長に念のために警察と
救急車の呼び方を教えてほしいと頼んだ時の会話が30分ぐらい掛かったことです。
一字ずつ和英と英和辞典を見せ合って、単語一文字ずつ指して「会話」してたんですから。
今考えると可愛いもんですね(笑)
これが初めて通じあえた「英会話」でした。正直とっても嬉しかったですね。
30年経った今でも覚えてる訳ですから。この頃は毎日辞書を抱えての生活でした。
ただ辞書って単語はわかっても文章にはできないから、
「ハァ?」なんて言われる事もしょっちゅうでした。
でもそんな僕でもつき合ってくれる親友が出来、彼らとはいまだに付き合いが深いですよ。

◎なるほど。素晴らしい体験だと感動すると同時に、
ストレスも大きかったのではないかと思います。

そうですね。英語がちゃんと書けるようになるまで4年はかかりましたね。
大学の論文は中身の採点より、英語の修正の為に赤ペンで埋め尽くされてました。
ただ数学なんかは英語を使わなくていいので、高校でも一番上のクラスでした。
日本からも教科書は持っていってたので、中学3年の数学は夏休み中に自習しました。
そういう負けん気は当時から強かったです。
子供時からスポーツで鍛えられてましたから(笑)
部活はサッカーが無かったので、ラグビーをやってました。
カナダ国内の強豪チームの一軍選手としてプレーして、
イギリスや日本等への遠征にも行きました。

ラグビーは結局社会人になってもやってましたし、
自分のなかでは海外で生活する上での大きな支えでした。

◎グローバルなご家族ですね。枡田さんは大学ではどんな勉強をなさっていたのでしょうか?

僕はカナダのボーディングスクールを卒業した後、アメリカの大学に進学しました。
理数系に強い大学で、パディユー大学というインディアナ州にある州立大学へ行きました。
学部では経済を専攻し、
大学院はシアトルにあるワシントン大学でエグゼクティブMBAを取得しました。
エグゼクティブというのは特化したメジャーを勉強するのではなく、会社運営を学ぶ、
経営者育成スクールというイメージですね。
でもすごく力がつきました。精神的にもすごく試されましたし。
仕事している時間を除くと、
家族といる時間より5人のチームメートと一緒にいる時間の方が多かったですからね。
チームメイトも今は北米全域に散らばっていますが、会える機会があれば今でも集まってます。

◎就職はアメリカでなさったんですか?

卒業するとき日本の企業からは複数のオファーを頂いたのですが、
そのころの僕は日本に帰りたくなかったんです。
僕はアメリカで働きたかったんです。自分の力を試すためにも。

でも日本の企業のオファーを全部お断りしたら、行く所がなくなってしまって。
結局その時は父親に頭を下げましたね。
父親の不動産会社がNYに進出して、そこで研修員として働く事になりました。
NYに1年半、シアトルで1年半、計3年アメリカで働きました。

しかし、その後家業を離れて日本で起業したんですが、
2年でお金がなくなって会社を潰しました。
本当に甘かったです。
清算した後は前の奥さんに食べさせてもらいながら日雇いの生活をしました。
毎朝会社に電話して仕事を頂くんです。
運良ければ、仕事を貰えますが全くない日もありました。
やっていた事は主に、引っ越し手伝い、警備員、バーゲンの売り子などです。
その時に支えてくれた元奥さんには、今でも感謝しています。

数年後、東京で不動産ファンド会社勤務時に、父親から戻ってこないかと誘いがあり、
それが今の会社の始まりです。

◎今のお仕事についてお聞かせ下さい。

今はカナダのバンクーバーというところで
不動産投資・管理会社を営んでいます。
他国内資産運用会社と差別化を図る為にも、
投資先市場でハンズオンを重要視した投資運用を行なっています。
業務内容については
、古い倉庫物件等を改築して新規賃貸ビルとして提供する事です。
新しい価値を生み出す、隙間産業的な位置づけと
自分の感性と市場の読みが勝負になるので、
とても遣り甲斐があり面白い仕事です。

今やっと一物件目の改築が大詰めに来た所です。
弊社のHP(若しくはFB)で状況を常にアップしていますので、
良かったら覗いてみて下さい。

◎これからの目標や、枡田さんにとっての成功とは何か、教えて下さい。

僕は一人の日本人として、「日本人って凄いんだ」ということを、
世界にもっと発信したいと思っています。投資の面では
バブル崩壊後は、海外進出して失敗した日本の不動産投資会社は
世界からあざ笑われました。
もちろんアメリカの国政の被害を受けた会社もありました。
基本的な土地へのコンセプトが違った為に、
日本の不動産は世界では通用しなかった。
でも今では現地の人間と張り合って、
物件購入をして市場性を競ってます。
また「輪」、「和」というコンセプトは
日本人がもっと胸を張って誇りに思う事だと思います。
「おもてなし」もそうです。相手の懐に入り込んで、
相手が把握出来ていないニーズを与える。
こんな高度な事を提供出来るすばらしい民族は、
世界何処を探しても日本人以外いないと思います。

僕は日本人はもっと世界に挑戦し勝負に出るべきだと思うんです。
だから僕は”ペリーの黒船”じゃないですが、
「逆黒船」で日本から外に出て、「日本人は力強いんだ」と、
存在をアピールし続けたいと思っています。
そして、もう一度自らの力で開拓していく日本の不動産を
世界地図に載せたいんです。

僕にとっての成功は、枡田だから任せたいと思って頂ける仕事を増やす事です。
お金ではなく、信頼と共感してもらえる人とぎりぎりまで切磋琢磨し合う事です。
そして、社会の中で生かされている事を理解し、共存し、人類の向上に貢献する。
そしていかなる時にも群れの前に立ち牽引する事を恐れない。
これが枡田に伝わるノーブルスオブリガス(Nobles Oblige)です。
もちろん枡田家は田舎出の一般庶民家ですが。

その積み重ねで会社も自分も成長して行き、社会が良くなる。
それこそが成功なんだと思います。

今後は他の投資家達とも組んで、
ビルの再開発を含めたファンドビジネスや不動産サービス業等にも
参入して行きたいと思っています。

◎最後に、小さいころから日本を客観的にみていらした
枡田さんだからこそわかる、読者の皆さんへのアドバイスを頂戴できますか?

もっと皆さんに海外に出てもらいたいですね。
ツアーやリゾート巡りでなく、
自分の足で今とは違う価値観を身につけてほしいです。
海外が無理なら、日本国内をリュックを背負って歩いてみては如何でしょうか?
いつもとは違う方法で達成感を味わうと新しい自分を見つけられると思います。

そしてもっともっと日本人である事に誇りを持って、
自分をアピールして欲しいと思います。
世界では皆さんが日本の代表なのですから。

◎枡田さん、ありがとうございました!

2014-09-16 | Posted in intaviwNo Comments » 

 

インタビュー企画第3回健康管理士一般指導員 佐久間辰雄先生

インタビュー企画第3回目は
健康管理士一般指導員、サプリメント管理士として
各地で健康セミナーを開催されている、
佐久間辰雄先生にご登場頂きました。

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健康管理士一般指導員 サプリメント管理士 佐久間辰雄

(1940年1月生) 東京都台東区浅草出身

現在栃木県宇都宮市に在住。1968年に28歳で宇都宮郊外に建材会社設立、
年商55億円、5工場、7営業所に拡大するも、2002年に廃業。
1985年より20余年間に予防医学の研究の為、東南アジア、台湾、韓国、中国、米国等に渡り広く知識を吸収、
その間 39歳で栃木県某協同組合理事長、県高P連副会長歴任。宇都宮北ロータリークラブ会員(現在退会中)。

日本成人病予防協会・健康管理士一般指導員の資格を取得・
サプリメント管理士マスターコースを修了し、予防医学・代替医療のスペシャリストを目指す。

栃木県赤十字血液センター臨時講師、宇都宮大学国際学部外部評価委員を歴任。
現在、栃木県健康管理士会会長 天然ゴム海外投資アドバイザー。
市民活動をファシリテーターとして貢献。

健康管理士一般指導員で医師とは異なる立場から健康相談。
ブログ・・・「ひげおやじのピンコロ人生」予防医学で健康アドバイス
をしています。

 

 

 

◎佐久間先生はもともと会社を経営なさっていたと伺いましたが、そのころから健康管理に興味があったのですか?

もともと私は大学の建築学科を卒業してスーパーマーケットの設計をしていたんです。
特にお客様の導線(動線)を意識した設計をしていました。ヘルスケアとはまったく関係ない仕事ですよね。
ただ親元から早く離れたかったという希望がずっとありまして・・・建築士をやめて、28歳でコンクリート業で独立したんです。
当時は不摂生もそりゃあ沢山していましたよ(笑

◎そもそも健康管理に興味を持つようになったのはいつ頃だったのですか?

コンクリート製造の視察で35歳のとき、中国に行ったんです。
そこで漢方を中心とした東洋医学に出会って非常に興味を持ちました。
中国に留学したくて学校に問い合わせたりしたんですが、
中国語が全く出来なかったので、叶いませんでしたね(笑)

◎すごい行動力ですね。東洋医学のどんなところに魅力を感じましたか?

西洋医学では臓器をそれぞれ個別の器官だと考えていて、
そこにだけ効くような薬を処方するんですが、(いわゆる対症療法)
東洋医学では臓器は身体という一つのものの一部と考えていて、
身体の一カ所だけを直すと言う考え方ではないのですね。
一カ所だけ直しても意味が無いし、そもそもなぜそこが悪くなったのかを
考えるほうが大切だと言う考え方です。
私はここに凄く共感しましたね。
それから東洋医学では針やお灸といった治療と薬の処方を合わせて治療しています。
日本では残念ながら針って、目の不自由な方の職業と誤解され、
医療行為というイメージがあまりないですよね。

◎健康セミナーはいつごろから始められたのですか?

会社のほうは前半は順調でしたが後半はバブルがはじけたこともあり
40周年を目前に閉める事にしました。
会社閉鎖の2年程前から、ネットワークビジネスで、サプリメントの販売を始めました。
中国視察以降、健康志向が強くなった事もあり、興味深く、また初めは売り上げも良かったので一生懸命やってましたね。
しかし、ネットワークビジネスってていうのは皆さんご存知の通り、最初は儲かるので
続けるんですが、段々と交友関係も狭くなりますし、長く続けられるものではありません。

しかし良い事もあって、サプリメントの販売を経験することで、
本当に良いサプリをきちんと自分の目で見分ける為に
健康管理師やサプリメント管理師の資格を積極的に取りました。
やっぱり、皆さんにお勧めできるものなのかを自分で調べたかったんですね。

それでその資格を使って最初はサプリメントユーザーから講演の依頼を頂いたりして、
そこから講演の経験を積んで行きました。
講演を続けていくうち、「今度はこういうテーマでお願いします」
と、サプリメント以外のテーマも依頼されるようになりました。
講演も勉強もより一層楽しくなりましたね。

◎需要があると感じるセミナーのトピックスを教えて下さい。

講演の内容はサプリだけにとどまらず、癌や、長生きなど、自分がお話しできる内容を増やして行きました。
需要があると感じるテーマはやはり癌ですね。今や、2人に1人は癌で亡くなる時代です。
一番人気のあるテーマは「100歳まで元気に生きるコツ」(笑)ですね。
医療との付き合いかたや食事療法など、自分もまだまだ勉強が追いつかないくらいです。

◎健康セミナーを通して、これからやりたいことをお聞かせ下さい。

今は癌の食事療法について力をいれています。
実際に食事をつくる料理教室の形をとったセミナーを通じて、
癌の食事療法のエキスパートを育てることが目的です。

また、野菜の需要と生活習慣病は反比例していて、
野菜の摂取が多ければ健康な体が維持できます。

多くのみなさんに是非参加してもらいたいと思っています。

それからコミュティーを活性化させることにも力を入れていきたいです。
健康管理や癌との付き合い方など、必要な情報はあっても、
それが地域のなかでシェアできなければ、つまり情報が届かなければ意味がありません。
ですから自治会などのコミュティーを育てることが大切なんです。
特に男性はそういう所に入っていきにくい生き物ですからね。
そういう部分でも健康セミナーを通じてサポートができれば嬉しいと思っています。

佐久間先生、ありがとうございました。

2014-09-16 | Posted in gallery, intaviwNo Comments » 

 

インタビュー企画第2回業務提携契約専門の行政書士 遠藤祐二さん

インタビュー企画第2回では業務提携契約専門の行政書士
遠藤祐二さんのインタビュー前編を掲載します。
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業務提携契約専門の行政書士
遠藤祐二

【略歴】
1967年
東京都中野区生まれ
1985年
横浜翠嵐高校卒業
1989年
中央大学法学部法律学科卒業
1989年
NTT入社

料金回収、システム販売営業を得て、マレーシアでのインテリジェント・ビルディングシステム構築プロジェクトに4年間従事。
現地での会社設立、契約交渉、各種事業ライセンス/政府優遇措置取得のためのマレーシア政府当局との交渉業務を一手に行う。
2001年
東京特殊電線株式会社入社
法務担当として、海外/国内の契約交渉サポート、
海外現地法人設立及び各種事業ライセンス/政府優遇措置取得のための関係当局との交渉業務に3年間従事。
2004年
アルゼ株式会社入社
ラスベガスのカジノホテルにスロットマシーンを販売するために必要な
米国ネバダ州当局とのライセンス取得交渉業務及び訴訟対応業務に2年間従事。
2006年
スミダコーポレーション株式会社入社
中国、台湾における合弁会社設立、M&Aを多数手がける一方、 海外/国内に おける契約交渉サポート業務に3年間従事。
2010年
行政書士試験に一発合格。マスター行政書士事務所を開設。

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マスター行政書士事務所
業務提携契約専門の行政書士 遠藤祐二

〒135-0016 東京都江東区東陽2-4-39   新東陽ビル4階 42号室

TEL:03-5633-9668 FAX:03-5633-9669
email:info@master-gyosei.com
HP1:http://www.master-license.com/
HP2:http://www.master-gyosei.com/
Blog1:http://ameblo.jp/master-license/
Blog2:http://ameblo.jp/master-houmu/
Facebook:http://www.facebook.com/Master.Endo

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◎まずは生い立ちからお伺いしてもよろしいですか?

僕は4歳頃から社会人になるまで、ずっと横浜が地元でした。
緑区というところで、のどかで名前の通り緑がいっぱいのところで、
虫取りなんかする活発な子どもでしたね。

◎思い出深い部活や学生時代のエピソードを教えて下さい。

僕は中学3年間をブラスバンドに捧げていたんです。パートはホルンでした。
激しくて厳しくて怖~い音楽の先生について、吹奏楽コンクールの全国大会を目指して、
競争の世界にさらされた3年間でした。毎日朝晩練習で夏休みなんて一日しか休めないような感じでした。
それが少しトラウマになってしまって、その後は人と競争するのが凄く苦手でしたね。

大学ではバイト仲間とサークルのような集まりを作って、とにかく皆で仲良くできることを
企画するのが得意でした。
企画の遠藤なんて呼ばれていたんですよ。

◎卒業されてから、すぐに行政書士を目指されたんですか?

いえいえ、結構ここから歴史が長いんですよ(笑
僕が最初に入った会社は、NTTでした。
行政書士とは関係ない仕事です。

はじめての仕事は電話料金の回収担当だったんですが、ヤクザの組事務所の
電話を停めたら怖い人が窓口まで怒鳴り込んできて殴られたり
横浜なので外国人の方を相手にすることも多かったですね。
そこで、下手くそな英語を使って電話料金の支払督促をしたり、
電話の申込手続の説明をしたりしているうちに、
その営業所の外国人窓口みたいになっていって。
それが本社の耳に入って、ある時仕事でマレーシアに行ける事になったんです。
NTTに勤めて7年目のことでした。
電話料金の回収って、言葉だけ聞くときついだけで全然面白くなさそうですけど、
僕は面白くないことも面白くしたり、面白さを見つけるのが得意だったし、好きでした。
今はすぐに仕事を辞めてしまう若い人も多くいますよね。
それも一つの選択だとは思うんですが、
『面白さを見つけて』長く仕事を続けた先には、大きなチャンスが巡ってくることもあるんです。
面白さをみつけるセンスって、生きて行く上で絶対に必要なんです。
これは大きな学びでしたね。

◎マレーシアではどんなお仕事をされていたんですか?

そうそう、マレーシアでNTTがなにをしてたかっていうと、
テレコムマレーシアという電話会社が新本社ビルを建てることになって
その全システムをNTTが作る事になって、
30人くらいのエンジニアが派遣されることになったんです。
でもその当時はマレーシアにNTTは会社もなかったものですから、僕が派遣されて
会社設立から始まって、テレコムマレーシアや下請業者との契約交渉、政府関係当局への
許認可申請・交渉そして現地の人と日本から派遣されたエンジニアの人たちの、やり取りの仲介役をしていました。
ここで僕の今の仕事の大きなキーワードである、『交渉』との出会いがありました。
もちろん英語ですべて対応するわけですから、戸惑いもありましたが、
マレーシアという他民族国家でコミュニケーションについて学べたのは僕の人生の中でとても大きなことでした。

◎異国の異文化に触れたことで、ご自身に変化などはありましたか?

もちろんありましたね。
マレーシアでは過去に民族紛争が1度しかおきていないんです。
僕たち日本人はコミュニケーションはなんの為にとるかと聞かれると、
だいたいの人が「お互いをわかり合うため」と答える人が多いと思うんです。
でもマレーシアの人たちは、「あなたと私は違うということに気づくため」と答えるんです。
これって一見、「さびしい考えだなー」と思うかもしれませんが真理だと思うんですよね。
「お互いをわかり合うため」なんて言っているその潜在意識には必ず「相手を自分の思う通りに
コントロールしたい。」っていう気持ちがあるんです。マレーシアの人達はそれをよくわかっている。
そして、「あなたと私は違うんだ!」というところがまず基本にあるから、「じゃーその上でどうしようか?」
って知恵を一生懸命に絞り出す。
それこそが多民族国家で生きて行く知恵だということをマレーシアの人たちに教えてもらいました。
これは日本にいたら気付かなった考え方でしたね。

そしてもう一つマレーシアに行ってよかったことは、
NTTという、日本では皆が知っている会社の看板ナシでも、
『自分は仕事ができる、この腕一本で。』と思えた事です。
マレーシアで当時、NTTの社員です、なんて言っても、
「NECの子会社か?」
くらいにしか思われませんでしたから(笑
実はこの頃から、独立したいという気持ちが芽生えていました。

◎4年間の駐在が終ったあとも、NTTにいらしたんですか?

そうですね。マレーシアでの4年間が終わり、帰国しました。
ところが当時のNTTは持ち株会社、西、東そしてコミュニケーションズと4つに会社がわかれたり、
とにかく体制がいきなり変わって、内部はめちゃくちゃでした。
帰国してからもマレーシアでしていたような、交渉の仕事をしたかった僕は、
なぜかシステム開発部に配属になってしまって・・・そこで転職を決めました。
当時は行政書士の資格はなかったですが、交渉の仕事が自分にあっている、
続けたい、という気持ちは、はっきりとありましたね。

転職した先は特殊電線を扱う会社で、そこで取引先との契約書を作成する法務担当として働き、
次の転職先のパチスロの会社では、ラスベガスにスロットマシーンを輸出するためのアメリカネバダ州の
関係当局との交渉を任されました。
大きな声では言えないですが、僕のいたパチスロの会社は危ない事もいっぱいしている会社で、
僕自身、多額の弁護士費用を支払って裁判ばかりしていましたし、100%自分の会社が有利になるような
理不尽で不平等な契約書をしょっちゅう作っていました。

◎会社にとって大きな契約を任されておられたんですね。

もちろん最初は罪悪感があったのですが、そういう契約書を作れてしまうことに、
つまり自分にそういう強力な説得力や交渉技術がついてきている事に、
だんだん快感を覚えるようになってきてしまったんです。
「黒を白にするなんて簡単じゃん!」なんて錯覚することもよくあったんです。
正直『これはやばい』と思いましたね。
本気で『ダークサイドに落ちる』と思いました(笑
このころですね。現実的に資格を取って独立の準備をしようと決めたのは・・・。

◎それではいよいよ独立に至るまでのお話を聞かせて頂けますか?
 独立前に実践した成功習慣があるとお伺いしましたが・・・。

NTTの仕事でマレーシアに居たころから、独立心は強かったんですが、
やはり大きな会社で契約をまとめるという重要な役割も、
やりがいは大きく、2009年まで会社勤めを続けていました。
でも本当のところを言うと、会社をやめて独立することが怖くて
仕方がなかったんです。
そこで、会社を辞める1年ほど前から、その恐怖心を克服するために
ひとつ実践していたことがあるんです。

そもそものきっかけは、いわゆるサラリーマンではなく、
既に起業して成功しているひとに会って、話してみたいと
思ったことなんです。

それで色々なセミナーに参加するようになったんです。
最初は5000円~1万円くらいのセミナーに
行っていたんですが、失礼ですけど、参加者の方々も
それなりの人しかいなかったんです(苦笑)
でもあるときフォトリーディングセミナーという10万円くらいする
セミナーに参加したときに、それまで参加していた安いセミナーとは、
ガラッと参加者の質が違ったんです。
これが僕が独立前にやった、っていうか今でもやっている成功習慣
とも言うべき行動パターンの初体験でした。

その時に、「高額セミナーに出席するという決断をした人達は
人生においても本物の成功者である可能性が高いのでは?」
と直感的に思ったんです。

そこで、以前の自分だったら絶対に参加しなかったような
高額セミナーに「エイヤッ!」と参加してそこにいた成功者の
オーラを浴びることをとにかくたくさんやってみたんです。
多分1年間で400万円ぐらいセミナー参加費で使ったん
じゃないかと思います(笑)

◎セミナー参加者の中で、特に影響を受けた方はいらっしゃいましたか?

あるセミナーで、20歳の女の子に出会ったんです。
50万円の、すごく高いセミナーなんですよ?はじめはビックリしましたね。
なんでこんな若い子が?って。
さらに話を聞いてみたらお父さんがいなくて、母子家庭。
大学も奨学金をもらって通っている。
新聞配達などのアルバイトをしたりして生計を立てている。

もちろん僕よりもかなり貧乏な訳ですよ。
でも彼女はそのセミナーの価値を一瞬で見抜いて、
自分が考えられるありとあらゆる手段でお金をかき集めて
参加したと言ってました。
その価値を嗅ぎ分ける力や、判断力、パワーには、敵わないな
と思いましたね。
そして、会社をいつまでたってもやめられずにウジウジしている
自分が馬鹿らしく思えてきました。そしてこういう人とただ一緒に
いるだけで、そしてそのオーラを浴びるだけで、絶対に自分は
成長できると確信しました。

このように価値ある高額なセミナーだからと言って、必ずしも
お金持ちが集まっているわけではないんです。
でも、もの凄く能力の高い人、感度の高い人が集まっている可能性が高い。
そのオーラを浴びることで、知らないうちにその人達のオーラが
自分の中にも入ってきて、いつの間にかその人達と同じ行動を取れる
ようになるんですよ。

ちなみに僕は絶対に満員電車に乗らない事にしているんです。
逆にオーラが淀むから(笑)
痴漢、悪質な酔っ払い、喧嘩、愚痴、他人の蔭口、居眠り、怠惰な感じ等々
あれほど人間のマイナスオーラが満ち満ちている空間はないですからね。

今でも定期的に成功者の人と一緒にご飯を食べたり、過ごしたりすることで
オーラを高めているんです。これは本当に大切だと思います。

◎退職と行政書士の資格取得のタイミングはいつだったのですか?

独立準備を進めている間に、
ラッキーなことに勤めていた会社がリーマンショックで経営が傾いてきて、
希望退職を募り始めたんです。
会社都合で辞められるなら、いまだ!と思いましたね。
そこで行政書士の資格を取る前に退職してしまったんです。
普通は資格を取ってから辞めますよね(笑)
試験は退職の数ヶ月後でしたが、何故か、落ちる気はしなかったですね。
あまりのタイミングの良さに、宇宙から「今がチャンスだ」と言われている
ような気持ちすらしました。丁度、2009年6月頃の話ですね。
そして宣言通りその年の試験に合格し、2010年5月に開業しました。

◎いよいよ開業ですね。すぐにセミナー業を始められたのですか?

今でこそ業務提携のセミナーを沢山やらせて頂いていますが、
開業して1年半くらいはセミナーはやってなかったんです。
実はそれまでの起業して1年の売り上げは、正直少なすぎて
ヤバかったですね(笑)
おまけに友人から頼まれて、今にして思えば怪しい投資案件に
多額のお金を投資してしまって失敗し、サラリーマン時代に貯めた
全財産がなくなってしまったんですよ(苦笑)
電話料金も払えなくていつも通話停止されていましたし、
お金がないので毎日、昼と夜は吉野家や松屋で牛丼を食べてました。
セミナーを定期的にやるようになってからは相談件数も格段に増えました。

◎業務提携契約専門という風に特化したのには理由があるんですか?

はい。
世の中のすべての事は
「絶対に必要なもの」
「なくても良いけどあったらいいなーぐらいのもの」
「なくても良いもの」
の三つに分けられるんですが、「なくても良いもの」は簡単に捨てられるんです。
「なくても良いけどあったらいいなーぐらいのもの」を捨てるのが難しい。
でもそれができないと何の意味がないんですよ。
なぜならそれが全体の7~8割ぐらいを占めるんですから。
僕はずっと、「なくても良いけどあったらいいなーぐらいのもの」を捨てられ
なかったんです。
具体的に言うと、外国人ビザとか、遺言書とか、業務提携契約以外の
案件も、何でもやりますよってスタンスだったんですね。
でもそれでは駄目でした。
「なんでもやります」って言うとお客さんは何も頼んでくれないんですよ。
『これしかやりません!』というものをはっきりさせる。
この決断と勇気が大事だったんです。
それで業務提携契約専門と名刺やHPに書くようにしたんです。
するとたくさんのお客様が日本だけでなく世界中から来るようになって、
初年度の10倍以上の売り上げを記録することができました。
それは業務提携契約専門とアピールする事で、仕事に対する絶対的な『自信』を、
お客様に感じて頂けたからだと思います。
おもしろいんですが、「業務提携契約しかやりません!」って言っているのに
「遺言状」とか「建設業の許可」とか「外国人のビザ」とかの依頼まで来るように
なりましたね(笑)
それは全部他の行政書士の先生に紹介しちゃってますけどね。

◎ずばり、独立してからのお仕事、楽しいですか?

もの凄く充実していますね。
僕のオフィスはレンタルオフィスで行政書士ばかり8人も
いるので、案件によってはチームで仕事を割り振ったりも
しています。
信頼できる仲間に囲まれて、学生のときに思い描いていた、
素晴らしいコミュニティーを築く事ができたと実感しています。
というのも、行政書士には1万種類くらい仕事があるので、
仕事の取り合いにはあまりならないんですよね(笑)
なので、競争社会が苦手な僕には本当に天職だと思っています。
夢が1つ叶ったなと、思っています。

◎これからやりたいことを是非教えて下さい。

これからやりたいことは二つあって、
ひとつは「裁判の無い世の中を創る事。」
もちろん殺人とか強盗とかの刑事裁判はなくならないと思うんです。
でも売掛金の未払いとかノウハウなどの知的財産権の侵害などの
民事に関しては僕が専門にしている業務提携契約にしても、
最初からお互いがきちんと契約交渉で互いの主張を聞き、
自分の主張をして、互いの妥協点を探し出し、それを契約書に
落とし込んでいれば、裁判なんか起こらないはずなんですよ。
記録に残すとか、書面にするとか、そういうことを世の中の人に
もっと大切にしてほしいですね。

そしてもう一つは、
「マレーシアに進出すること。」
縁のあったマレーシアで、またお仕事をしたいですね。
マレーシア半分、日本半分で仕事をしたいので、
まさにノマドライフクリエーターになりたいわけです。
我ながら、すごくいい感じに〆られたかな?(笑)

◎遠藤さん、ありがとうございました!
これからもご活躍をお祈り致しております。

2014-09-16 | Posted in gallery, intaviwNo Comments » 

 

インタビュー企画第1回もうやんカレー代表取締役 辻 智太郎さん

インタビュー企画第2回目は、
『もうやんカレー』の代表取締役、辻 智太郎さんにインタビューをさせて頂きました。

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厳選された野菜と25種類以上ものブレンドスパイスを使い、完成まで2週間をかけて作るカレーは、まさに健康食品と言えます。
記憶に残る、価値のあるカレーを提供し続け、現在都内に6店舗を構える『もうやんカレー』。
今回はその誕生の秘密、起業に至るまでの辻さんご自身の物語を御伺いしました。
http://moyan.jp/

 

 

◎起業に至るまでに様々なことがあったと思います。
起業される方の中には、親御さんが起業家で幼い頃から影響を受けていた、
という方も多くいらっしゃいますが、辻さんのお父様はどんな方でいらしたのですか?

今の商売をするにあたって、親の影響は大きいですね。うちの父は関西の三重県出身で、母は東京の人です。
父は東京に出てきて建築の仕事をした後にゼネコンに入って働き、若い頃にかなり良いポジションについていました。
父は当時、年齢の割にとても優雅な生活をしていたと思います。
ですが仕事の都合上、食べたり飲んだりが多くなってしまい、凄く太ってしまいまして。
そしてついに身体を壊してしまったのです。

元々父親は柔道・剣道・空手、全部3段以上もっている格闘家だったのですが、
盲腸になってもメスが通らないような状態でした。
それがまだ29歳くらいでした。それでお医者さんに「このままの生活をしていたら死にますよ。」と言われて・・・・・

そんな時、父は当時ではまだ珍しかった食事療法というのに出会いまして、
食べるもの、飲むもの、体に入れるものを良くしないと健康状態は良くならないという事を学びました。

そしてそれを真摯に実践していったのです。そうしたら、
薬を飲んでも回復しなかったものが、みるみる良くなっていった。それで命を救われたんです。

そして食事療法に魅せられた父は、会社を辞めて健康食品のお店を始めました。それは僕が小学校4年生の時ですね。
そこで一気に生活スタイルも変わりましたね。当時は100畳以上ある広い家に住んでいたのですが、
会社を辞めた途端に20畳足らずの狭い家に家族全員で住むようになりました(笑)

それがまた商売が上手くいけばいいのですが、
ゼネコンで大金を扱っていた父がいきなり100円200円の仕事なんて出来ないんですよね。
だからあっという間に、お店の経営は期待に反して悪く成っていきました。
商売は商売だから、お金にならなければ仕方がないですよね。

人出が足りないっていうことで、学校に行く前にタマゴを運ばされるなど、僕自身も色々やらされました。
ただ、バイト代として一日50円お小遣いを貰っていました。
小学生だったので意外と嬉しいものでしたけどね。

当時は毎日、仕事の事について父から聞かされていました。
小学生だったので、さっぱり分からなかったですが(笑)。
でもレジを打ったり売り上げを計算したりしているうちに、
お金がどう動いているのかを体感しながら学ぶことが出来ていました。
そのせいか、小学生ながら金銭感覚は人一倍ありましたね。

当時僕の周りではゲームが流行っていて、5000円するゲームウォッチというゲームが欲しかったのです。
そこで5000円を捻出する為には何をしなければならないのかを考えたりしていました。
どれだけの事をすれば5000円にたどり着くのかを考えていました。
そのときに一万円を稼ぐ事は大変な事なのだと知りましたね。

◎当時のその経験は今に繋がっていますか?

繋がっています。
当時は食べるものが全然なかった。だからお店で売れなくなった、余った食材をよく食べていました。
賞味期限切れの食材はすっぱくなって、食べられたものじゃないですよ。
うちは無農薬のものを扱っていたので、悪くなるのも早かったのです。
それをいかに上手く調理するかをいつも考えていました。当時は祖父がうまく料理してくれていましたね。
お金も無かったので誕生日プレゼントも買ってもらえなかったです。
でも、無いなりの工夫を覚えましたね。
日本は豊かですからお金があれば何でも食べることが出来るし、買えますが、逆にお金がないと何も出来ないんですよね。
人に寄付する事も出来ないし、何かを教える事も出来ない、与える事が出来ない。
無い無いづくめです。まずは自分がご飯を食べていないと何も出来ない。
当時のこういった経験は、起業する上でのハングリー精神になりましたね。

◎若い人の起業に関して辻さんはどうお考えですか?

起業するからには、儲けを出さなければ始まりません。
ですから綺麗ごとばかりでは、始められない事だと思います。
自分のやりたい事をやってそれが事業として成立すれば一番良いと思いますが、
まずは始めた事業で自分がちゃんと生きていけるようにならなければいけませんから、本当に大変なことですよ。

◎なぜカレーのお店を開かれたのでしょうか?

もうやんカレーをはじめる前、僕はスポーツに関連の仕事をしていました。
トレーナーに近い仕事です。その経験から、スポーツにおいて食事というのは非常に大切な要素で、
同じスポーツをしていても、食べているものによって出せるパワー、つまり体力が全く違ってくると知りました。
例えば、徹夜をして海に行って、サーフィンをするとします。
その時、食べる朝食がマックなのか、モスバーガーなのか、フレッシュネスなのかでは全然効果が異なるということです。
マックだと8時頃で体動かなくなります。モスとフレッシュネスは昼まで。
ところが、家でしっかりしたものを食べれば、体力は夕方まで充分に持ちます。

食べるものとスポーツは非常に密接な関係があります。食べたものは全て自分の体になっているわけですから。

僕は昔、寮に住んでいまして、近くにある高級食材が売っているスーパーで値段を見ずに様々な食材を買ったんですよ。
それを毎日調理して食べていたんです。
そして、ある時に、野菜を煮込みに煮込んで、ドロドロのカレーのようなものを作った事がありました。
味付けは別として、それを毎日食べていたんです。さらに、当時は若かったこともあり、
面倒で、朝食は食べていなかったのですが、夕食が余っていたら自然と朝にも食べるようになりました。
その、ドロドロのカレーのようなものをです。

そうしたら、すごく体の調子が良くなっていったんです。
これは面白いなと思って料理について本格的に勉強をしていったら、
体がよく動く料理が野菜たっぷりの”カレー”だと解ったんです。
自分が作っていたのは、カレーだったんだと、その時に解ったんですね(笑)
それから毎日研究して、体によいカレーを作っているうちに、
トレーナーの間でも人気メニューになって。だんだんこれで商売が出来ないかなって思い始めたんですよ(笑)

こうしてカレーに出会ったとき、子供のころ親の健康食品店を手伝いながら、
さんざん『将来は自分で商売しろ』と言われていたのを思い出しましたね。
そこから起業を真剣に考えるようになりました。
それから毎日のように、夕食はカレーを食べにいって研究しました。
そこで一つの気づきが生まれました。それは『日本のカレーは毎日食べられる』ということ。
例えばインドカレーを、日本人は毎日、食べられないんです。おいしいけれど、毎日は受け付けられなくなる。

でも、日本のカレーは日本人の風土や食文化に合っているということを、
様々な研究を進めるうちに自分なりに確信しました。

この商売なら一生涯の仕事に出来る。いや、してみせる。
そこからは、日本のカレーをとにかく調べて調べて調べぬきましたね。

これが、僕がこの店を開く、このビジネスを始めたスタート地点の話です。
私はもうやんカレーさんに結構頻繁に通っているのですが、
カレーの味を1年中一定に保つ事は、とても難しいと思うんです。
季節によって野菜の甘みが違ったりしますし、
どのように味を維持しておられるのかずっと気になっていたんですが、
教えて頂けますか?
うちの場合は、野菜はいい時期に収穫したものを冷凍保存して、
1年通して使っています。
順次仕入れるのではなくて、質の良いものを、保存しておいています。
たとえばカレーに入ってる玉ねぎですが、新玉ねぎは水っぽくて使えないんです。
水分が多いから大鍋で炒めるときに跳ねちゃって、大変なんですよね(笑
そういう意味で季節や産地による野菜の状態を研究することはとても大切でした。
リンゴなんかは煮詰めてピューレ状になっているものを使っています。
煮詰めてあれば、鮮度も変わりません。
実はりんごは酸味の強いものが、カレーには適してるんですよ。
フライパンで炒めて、どのリンゴの、
いつ収穫されるものが美味しいのかを食べ比べたりしましたね。
それでは、カレーにとってお野菜やお肉とおなじくらいに大事な
”スパイス”についても、
美味しさの秘訣があるのですか?
スパイスもやはり同じで、いい時期に収穫されたものを冷凍保存しています。
僕の考えでは、カレーのスパイスは3つあれば充分なんです。
マサラとか、香りの良いものをいっぱい使ってあげるといいですね。
本来、カレー作りの行程からいうと小麦粉にバターを炒めて、
そこにスパイスをいれるんですが、
うちは温めた油にしみ出させる形でスパイスの味をだしています。
スパイスの香りがしっかり油にしみて、あの風味ができているんですね。
やはり油にもこだわりがあるのでしょうか?
油はオリーブオイルなんですが・・・
ここでちょっと家庭でも使えるアドバイスなんですが、
オリーブオイルは絶対1リットル2000円以上のものを使ったほうがいいですよ。
味が格段に違いますから。
スーパーなどでは安いオリーブオイルも沢山売っていますが、
これは確実に言える事ですね。
塩とか、油とか、世の中にはそれはそれは上質な、美味しいものがありますよ。
高いけど(笑
やはり商売をしている中で、上質なものに変にこだわりだしてしまうと、
本当に原価が上がってしまうんです。
だから良いものの味をキチンと知った上で、
一定以上のものを上手に選んで使うのが、僕はいいと思いますね。

いつか原価など関係なく、
「絶対にこれが一番ウマい!」という食材やスパイスだけで
究極のメニューを作ってみたいですね。

どなたか、パーティーのお料理などにいかがですか?(笑

辻さん、ありがとうございました!

2014-09-16 | Posted in gallery, intaviwNo Comments »