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インタビュー企画第13回石井真美先生編 後編

インタビュー企画第13回石井真美先生編 後編

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<石井真美先生プロフィール >
経歴:千葉県生まれ。
北米認定自然医師、音楽療法士、針治療師(伝統&美容)、
催眠療法士、および霊気マスター・指導者。 1998年渡米後、
フロリダ州マイアミ大学にて音楽療法と心理学の名誉学士号取得。
そして日本と北米においてセラピスト、
青少年向けの相談サービス「心の119番」カウンセラーや
Mt. Sinai病院にて精神医学研究助手などの経験を経て、
カナダ、トロントの認定自然医学校、Canadian College of Naturopathic Medicineを卒業。
Robert Schad Naturopathic Clinic、
Anishnawbe Health Centre、 Yores Healthなどでインターンとして研修。
2013年、文化精神医学の専門家であるDr.Ted Loと、
Integrative Mental Health Centre of Torontoを立ち上げ、
伝統医療、現代西洋医学と心理学における概念を融合しながら、
こころの健康に焦点を当て、身体と霊性および社会的つながりも大切にした
ホリスティック医療を目指す。
自己と自然と調和することによる自己治癒力の活性化、
ひとりひとりが生まれ持った美しさを味わい輝く自分らしい豊かな健康生活、
デリシャス・ライフを提案。

http://mydeliciousmoments.com/(オフィシャルウェブサイト)

・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

真美先生、後半もよろしくお願い致します。
自然医学校へ進まれてからは、どのような分野で活動なさったのですか?

28歳のとき、カナダ、トロントの認定自然医学校、
Canadian College of Naturopathic Medicineへ入学しました。
卒業後も心の健康への興味が一番あり、2013年、文化精神医学の専門家であるDr.Ted Loと、
Integrative Mental Health Centre of Torontoを立ち上げ、私はホリスティックなアプローチで患者さんと向き合いました。

どういった患者さんが多かったのでしょうか?

やはり鬱病や不安症の方、若い子も多かったですね。
日本では統合失調症とわれてしまうような症状の10~20代の子供も多く看ました。
今の子供って感じやすい子が多くて。不安を解消する為にマリファナなどに手を出してしまい、
幻聴幻覚に悩まされるケースも。
精神的な理由で病院に収容されてしまうと、カナダではあまり人間的な扱いをされない場合もあります。
そんな経験を10代の子がしたら、トラウマですよね。
そういうサイクルから出られない子供を、カウンセリングは勿論、
針やアロマ、ミュージックセラピー、催眠療法等を組み合わせながらサポートしていました。
時には近所の植物園で花木と触れ合ったり、お気に入りの木を選んでもらってハグをしたりも。
そうやって身近な環境から生きていることへの安心感や肯定感を培うことにつながっていたと思います。

やはり、親の心の状態を敏感に感じ取ってしまうのでしょうか?

そうなんです。
ですから子供の治療の場合は親、とくにお母さんを一緒に治療しなければいけないと気付くことができました。
親がちゃんと自分の心をケアすることや、子供との向き合い方など、治療と言うより、教育が必要なんだと。
同じ頃、トロントで行われた江本勝さんのワークショプの通訳をさせて頂く機会を頂きました。
江本勝さんについてはこちら

江本勝さんは水に美しい言葉や音楽を聞かせることで美しい結晶を生み出し、
それを写真に納めていました。「大好きだよ」「綺麗だね」と声をかけると、水の結晶はどんどん美しくなり、
逆に「ばかやろう」とか「嫌いだ」という言葉を聞かせると、結晶はどんどんボロボロになってしまったそうです。
人間はほとんど水でできている生き物ですから、同じことが私たちの身体にも起こっているのです。
愛とはなんなのか?という大きなテーマで沢山の親子に向けて一緒に活動したり講演会をしたとき、
母親の変化、それに答えるようにして子供が変化して、私自身も大きな手応えを感じました。
今でも、その時受け取った数々の感動体験のメールを忘れられません。
「ありがとう」という言葉が、メールに溢れていて。
江本勝さんは残念ながら一昨年お亡くなりになってしまったのですが、私にとって大きな、大切な出会いでした。

真美先生は江本さんの意思も、きっと継いでいらっしゃるんですね。

これから日本へ帰国されて、活動拠点を日本に移すとお伺いしました。
日本ではどんな活動をなさるのですか?とっても楽しみです。

実はトロントではもう一つ、鬱や不安症の治療の他に、
企業のリーダーへ向けたセラピーも行っていました。
彼らにとって健康であることは当然のことで、世界中を飛び回るような毎日を
よりオプティマルな(最適な)状態でいるためにセラピーを受けるのです。

そいういう方達は物理的なものだけでなくカルマや風水などの自然や宇宙の流れ、
法則などの考え方をとても大切にされています。
身体的な滞りを癒すのにボディワークもするのですが、
音の波動やアロマなどを組み合わせたヒプノセラピーがとても好評です。
施術のなかで自分に今必要なことが自然に顕在意識にあがってくるので、
答えは自分の口からポロリと出てきますので、自分自身の本心の確認作業でもあります。
ヒプノセラピーについてはこちら
それが会社の大切な方針だったり、見失いそうになっていた根幹だったりするんです。
社長の心が安定すれば、社内のもめ事が減り、それが業績などにわかりやすく反映します。

日本人はまだ、そういう心のケアの仕方を知らない人や
「そんなものに頼ってはいけない」と考える方が多いかもしれませんね。

そうですね。日本ではセラピーを「怪しい」みたいに思ってる人が多いですよね。
残念なことです。自分の使命に気付けた時、自分自身も会社も、大きく成長できると思います。
そしてもちろん家族や、周りの大切な人々との関係やそれを取り巻く環境も最適化されていくのです。
身体の健康診断のように、心の健康診断もこれからの日本に浸透していけばと思います。

「これからの日本」に真美先生がいらっしゃることが、とても心強く感じます。
先生の目標とする活動について教えて下さい。

私は自分のことを「いのちの美しさを輝かせるドクター」と言ってるんですが
それはつまり「ご自身のいのちの美しさをたっぷり味わっていただく」ことを通して、
「自分の使命に気付く(思い出す)こと」の為のサポーターともいえるかもしれません。
自分のコアと繋がって、癒し、愛すること。

自分が愛されてないと思ったり、辛かったり寂しかったりすると、
人にも本当の意味では優しく出来ないじゃないですか。やっぱり人間だから。
私も、ずっと誰かを癒したいと思っていたけど、本当は自分を癒したかったんです。
これからも音楽や美術、そして「食」もどんどん融合して、
「美しさを味わう」という活動を日本でもしていきたいです。
日本人の「美しい」はとても洗練されていて深いんですよ。
「わびさび」もそうですし、「朽ちるから美しい」という考え方もありますよね。
私は自分の命の美しさをそうやって愛でることができたら
本当の意味で輝けると信じています。それは自由で、わくわくすること。

私は皆さんが自分らしく楽しく輝く為のサポートを、これからもしていきたいと思っています。
既存の患者と医者という関係ではなく、
「気付くタイミングに来たひと」と「気付く御手伝いをするひと」として関わりたいです。

インタビューを読んで下さっている皆様に
お知らせ等がありましたらぜひお聞かせ下さい。

今年の春には日本に完全に帰国するので、
秋頃にサロンができたらいいなと思っています。
男性向けには、プチエグゼクティブというか、現在、または、これから
企業の社長やリーダーになっていく方のセラピーには力を入れたいです。
女性向けには、複数でお食事をしながら、それぞれの美しさを味わい分かち合いをする
ワークショップも沢山やりたいですね。
私はスピリチュアルなことも取り入れますが、バックグラウンドは医療ですので、
そこは上手く癒合していきたいと思います。
まだ具体的なことは決まっていないですが、良いお知らせができるよう、
自分自身が美しく輝きながら楽しみたいと思います。

その時にはぜひ、この記事を読んで下さった起業家の皆様やそのご家族、御友人が、
真美先生のセラピーを受けられるよう、しっかり告知したいと思います。
真美先生ありがとうございました。

2016-02-23 | Posted in intaviwNo Comments » 

 

インタビュー企画第13回石井真美先生編 前編

インタビュー企画第13回石井真美先生編 前編

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<石井真美先生プロフィール >
経歴:千葉県生まれ。
北米認定自然医師、音楽療法士、針治療師(伝統&美容)、
催眠療法士、および霊気マスター・指導者。 1998年渡米後、
フロリダ州マイアミ大学にて音楽療法と心理学の名誉学士号取得。
そして日本と北米においてセラピスト、
青少年向けの相談サービス「心の119番」カウンセラーや
Mt. Sinai病院にて精神医学研究助手などの経験を経て、
カナダ、トロントの認定自然医学校、Canadian College of Naturopathic Medicineを卒業。
Robert Schad Naturopathic Clinic、
Anishnawbe Health Centre、 Yores Healthなどでインターンとして研修。
2013年、文化精神医学の専門家であるDr.Ted Loと、
Integrative Mental Health Centre of Torontoを立ち上げ、
伝統医療、現代西洋医学と心理学における概念を融合しながら、
こころの健康に焦点を当て、身体と霊性および社会的つながりも大切にした
ホリスティック医療を目指す。
自己と自然と調和することによる自己治癒力の活性化、
ひとりひとりが生まれ持った美しさを味わい輝く自分らしい豊かな健康生活、
デリシャス・ライフを提案。

http://mydeliciousmoments.com/(オフィシャルウェブサイト)

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真美先生、今日はよろしくお願い致します。
現在はトロントで自然医師としてご活躍の石井真美先生。
今回は先生のヒストリーを前編でお伺いさせて頂き、
後編では現在のお仕事やこれからの活動のについて詳しく聞いて参りたいと思います。

早速ですが、
先生は小さい頃はどんなお子さんでしたか?

私は小さい頃は正義感の強い子どもでした。
幼稚園の頃から、多数決で「自分 対 クラスの皆」 で意見が分かれてしまったときにも、
しっかりと自分の信念や意見を言葉にするようなところがありました。
両親が私のそういう個性を認め、褒めてくれていた事は、今でも覚えています。

中学生の頃は養護学校で教えていた母の影響で教師になりたいと思っていました。
千葉県に住んでいたので、千葉大の教育学部への憧れもありましたね。
元気で健康で、勉強も頑張っていましたし、友達も沢山いて、そのころの私の世界は性善説で成り立っていました。

しかし高校1年生の時に交換留学制度で渡米したことをキッカケに、
私の世界は大きく広がっていきました。

まだ16歳のときに始まった留学生活だったのですね。
家族と離れて、異文化のなかに一人、大変なこともあったかと思います。

留学先では文化や言葉の壁を乗り越えることも大変でしたが、
ホームステイ先での暴力や
現地校のクラスメイトたちから苛めを受けたことが最も辛い出来事でした。
大人になった今思えば、アジア系の留学生であるという文化の違いや、
学ぶチャンスを人より多く貰っているという、妬みのようなものが綯い交ぜになり、
起きたことでした。

しかし当時は自分を責めることしか出来ず、苛めとは思わずに、
自分が悪いのだ。だからこれは罰なんだと思っていました。

高校生の女の子には、辛すぎる環境でしたね。
日本のご両親や先生に、助けを求めることは難しかったのでしょうか?

当時の私は、
自分のせいでそういった事態を招いていると思っていましたし
自分は沢山の日本の学生の中から選ばれてここに来たのだから
頑張らなければいけない。弱音を吐いてはいけない。
というプライドもあってそう思ってしまい、
ホストファミリーはもちろん
日本の家族には何も話すことができませんでした。
人間不審に陥ったまま必死に勉強する毎日でした。
私は段々と食欲がおかしくなり、摂食障害に陥りました。

そんなとき、私の心を救ってくれたのが音楽でした。
とにかくピアノとフルートの練習にお昼休みも放課後も費やしていました。
また、当時のボーイフレンドが送ってきてくれた日本の歌謡曲や洋楽を、
カセットテープで聞いていました。

正義感の強いお子さんだったからこそ、周りに心配や迷惑をかけたくないという
思いもあったのですね。
孤独で過酷な環境の中で、音楽という癒しに救われたことは、
先生にとってひとつの転機だったのでしょうか?

そうですね。美しいメロディに癒されるなかで、
音楽が人に与える様々なエネルギーを強く感じ、自分の居場所や大きな可能性を感じました。

やっとの思いで1年間の留学生活を終え、日本へ帰国しました。
しかし正直、帰国後も摂食障害は完治せず、体調が良くありませんでした。

大学受験ではやはり教師を目指して千葉大学の教育学部を受けようかと
随分悩んだのですが。

最終的に私はもう一度アメリカへ行く決心をしました。

もう一度留学を決意されたのですね。
辛い思い出のある国に、再び学びに行くという選択には
どんな思いがあったのでしょう?

そうですね。辛い思いも沢山しましたが、その経験があったからこそ、
人を癒すことのできる「音楽療法」について専門的に学びたいと思いました。
高校生の時に行った留学先は、田舎で寒い所だったので、
今度は多文化の交わる都会で暖かい所にいこう!と、フロリダ州マイアミ大学へ進学しました。

新しい環境でスタートを切った大学生活は如何でしたか?

大学の環境はとても良かったですし、音楽療法の授業もとても興味深いものでした。
しかしどうしても摂食障害が良くならず、人を癒す勉強をしているのに、
自分が閉じこもりになって今にも倒れそうという、本末転倒な状況でした。
ある日心配した友人が大学のヘルスセンターに連れて行ってくれて、
そこで初めて自分の癒しの旅が始まることになったのです。

私はいつ死んでもおかしくない、と心臓マヒのリスクを警告されるほど、不健康な状態でした。
そして先生は私の話を過去に遡って丁寧に聞いてくれました。
私は今まで自分の内側に留めてきた思いを、初めて吐き出すことができたのです。
辛かった交換留学生時代、私は罰を受けていたのではなく「苛め」と「虐待」に遭っていたのだと
初めて理解することができました。

そこから先生方はチームを組んで下さり、
薬の処方やカウンセリングなど、心身共に治療を受けることができました。
私は段々と回復して行く自分の心と身体と向き合いながら、
専門である音楽療法以外にも、心理学など多くのことを学びました。
そしてこの時出会った先生の影響もあり、段々と医療や心理学の魅力に魅せられて、
精神科医になりたいと思うようになりました。

やっと癒しの時が訪れたのですね。
自分の身体で実感を伴いながら学び、回復されていったことは、
真美先生だからこそできたのだと思います。

卒業後は精神医学を志されたのですか?

マイアミ大学卒業後は医大進学を目指しカナダへ渡りました。
現地の大学で有機化学などの医大進学に必要な科目を取りながら、
精神科医の先生の助手をさせて頂いたり、ボランティア活動をしたりも。

トロントでの新しい生活が始まったのですね。
宜しければ大学生活以外の暮らしについても聞いてみたいです。

トロント時代に2年間、「心の119番」という
日本の子どもへ向けたメールカウンセリングの相談員をやっていました。
企業がスポンサーをしていて、当時は画期的なサービスでした。
やはり面と向かって大人のカウンセラーと話すのは、子供にはハードルが高いと思いますから。
そこでは苛めや虐待の相談が多く、自分の過去の経験がすごく役に立ちました。
相談してくれる子どもの気持ちが、本当に良くわかりましたから。

「心の119番」は今はもう無くなってしまいましたが、
日本から遠く離れていた自分が、傷ついた子どもたちの助けになれた事は本当に嬉しかったです。

辛い経験を乗り越えて、誰かの救いになるということは、
生きる意味を感じさせてくれますね。

生きる、という言葉で思い出されるものには、トロントの現地の懐石料理屋さんがあります。
そこで食べさせて頂いた懐石料理には、
「美しい。美味しい。生きていていることが嬉しい!」と感じました。
ちょっと大げさかもしれないですが、
過去に摂食障害を抱えていた私にとって、食は罪悪感を感じてしまうものでしたから、
感動がとても大きかったのです。
何度もお願いしてアルバイトをさせて頂き、お店の看板娘のように可愛がって頂きました。
日本人としての誇りや、食に対する前向きな気持ちを育てることができ、
私のトロントでの居場所となりました。

ひとつひとつの出会いと経験が、真美先生を癒し、優しいパワーを与えてくれている
ことを感じます。『先生』になっていく為の、大切な道であったことが伝わりますね。

そうですね。やっと治療する側の心や身体の基礎ができてきたような感じでした。
勉強のほうの話に戻るのですが、
精神科医の勉強を進める中で知ったことは、精神科の治療は薬学療法であるということでした。
患者さん一人一人のストーリーに耳を傾ける時間はほとんどなく、
薬で治療を進めてくことに疑問を感じました。

なるほど。日本でも鬱病の方に特定の薬を処方して、それ無しには生きて行けなくなってしまうひとも、 多いと聞きます。

もちろん、治療の段階においてはお薬が必要な時もあるのは分かっているのですが、
それが最終的な解決法ではないんです。

そんな思いを抱えて、精神科医への道に迷いを感じていたとき、
出会ったのが自己治癒力に焦点を当てた、ヨガや瞑想など
伝統医療の理念と西洋医療を取り入れた自然医学の世界でした。
食生活の改善や心身の安定を大切にする自然医学は、日本人である私にとって
すぐに慣れ親しむことのできるものでした。

こうして現地でのインターンやボランティア、大学での科目履修、懐石料理屋さんでのアルバイトなど、
沢山の経験と学びを経て、私はトロントの認定自然医学大学へ進むことを決めました。

真美先生ありがとうございました。
次回の後編は、様々な経験を糧についに自然医師としてのキャリアをスタートさせ、
デリシャスライフを提唱する先生のご活躍に迫ります。

つづく

2016-02-07 | Posted in blog, intaviwNo Comments » 

 

インタビュー企画第12回トリプルヒューマン株式会社 為井 清美さん インタビュー

インタビュー企画第12回は、トリプルヒューマン株式会社 為井清美さんにお話を伺いました。

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<トリプルヒューマン株式会社 為井 清美さん プロフィール>
血流の滞ったコミュケーション不全の職場でご自身もがんばりすぎ、部下にもがんばらせていませんか?
笑顔と信頼関係のあふれる職場でメンバーの成長と組織の成果の両方を手にいれる方法があります。
「営業マネージャー」×「プロコーチ」の私にお任せください!

株式会社リコー、セコム株式会社で25年以上
中央官庁、大手企業、中小企業等の法人営業、個人向け営業として店長、エリアマネージャーという組織長として部下を育成、組織運営の経験。
プロコーチとして、コーチ養成機関「コーチエィ」にてCTP(コーチトレーニングプログラム)、
CTIにて基礎コース〜上級コースを修了し、社内コーチとしての経験、実績。
社員研修のプログラムを策定、実施の実績。

トリプルヒューマン株式会社を立ち上げ、個人〜チーム〜組織の共感協働サークルをつくる
短時間+継続で「わかる」から「できる」になる定着プログラムを提供中。
・自分と仲間を活かす 体感型研修
・リーダーとしての「在り方」「行動」を身につける 継続型研修
・軽やかな心と行動で成果をあげる なでしこ研修

国際コーチ連盟認定コーチ(ACC)
国際コーチ連盟日本支部運営委員
NPO法人 企業内コーチコミュニティ運営委員

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

為井さん本日は宜しくお願い致します。
まずは小さい頃のお話から聞かせて頂けますでしょうか?

私は東京都の調布市で生まれました。実家は床屋さんで、理容師として一生懸命働く両親の元で育ちました。
小学校低学年の頃は喘息があり、読書好きの、ひ弱な子供でした。
しかし高学年で喘息が治り、体力がついてくると、だんだんとリーダーシップを取れるようになり、
いつしか学級委員に立候補するほど積極的な子になっていました。

将来の夢などはいつ頃から芽生えてきましたか?

私はずっと教師になりたかったので、大学時代には教員免許を取るため、教育実習にも行きました。
しかし当時は学校が荒れている時代で・・・それこそ生徒が暴力事件を起こして先生が警察に行くなんてことも、しょっちゅうありました。
私は中学校に教育実習に行ったのですが、目の当たりにした先生と生徒の関係には、がっかりしてしまいました。
先生は生徒の意見を全く聞き入れないのです。最初から話し合う気持ちもなく、ただ上から押さえつけるような教育をしている様に見えました。
このまま教師になったら「いつの間にか傲慢な人間になってしまうのではないか」と感じて、民間企業に就職することにしました。

最初に就職なさった会社では、どんなお仕事をされていたのでしょうか?

私が大学卒業後に就職したのは株式会社リコーという会社でした。日本の事務機器、光学機器などの製造を行っているメーカーです。
男女雇用機会均等法が施行された初年度の年で、350人の同期の中でたった2人だけの女性営業職として配属されました。
私のお客さまは主に御役所でしたので、官公庁や政党などに事務機器を販売しました。
インターネットが無い時代でしたから、1台1000万円くらいする通信機器の予算組みをしたり。
御役所は3月に予算を使い切るので、秋から仕事がどんどん忙しくなり、3月31日の最終納品日の前にはトラックの取り合いをするような、
体育会系の部署でした(笑
一般企業と違い、御役所は来年度からの予算取りなので、どの会計から何を買うかなどの調整をするのが難しくもあり、面白くもありましたね。
今では入札などが一般的で、特定の企業との癒着を避ける為に営業努力は殆ど通用しなくなっていますが、
当時は御役所とのお仕事でも営業努力が実ったので、お客様とのコミュニケーションを大切に仕事を頑張っていました。

御若くして、がむしゃらにお仕事に向き合う事、営業職として大きな予算を任されることを経験されたのですね。

そうですね。扱う金額はとても大きかったです。大きすぎるくらいでした。
6年間リコーで働き、年間3億円近くの予算を任されるようになった頃、「頑張ったな、もうやりきったな」という気持ちになりました。
今思えば5、6年くらいで何を言っているんだと、自分に喝を入れるのですが(笑
ただその当時は決意が固く、会社を辞めました。

20代で3億円規模のお仕事を任されるなんて、大変なことです。
燃え尽きてしまったような気持ちになられたのかもしれませんね。

そうですね。しばらくはゆっくり過ごして、
新しく就職するならそんなに忙しくない会社がいいな、なんて思っていました。
そんな時にセキュリティ会社であるセコム株式会社の店舗で働くという求人を見つけて、
お客様にお茶を飲みながらお話するような気楽な仕事だろうと思って応募したんです。
当時、急速に利用者が増えてきていたホームセキュリティのショールームのような拠点で働くことになりました。

無事に採用されたのも束の間、当時のホームセキュリティの拠点は全国で10店舗ほどだった規模を一気に100店舗近くにまで
拡大していった時期で営業としての実績を求められる部署になり、私もその上昇気流に巻き込まれるようにしてどんどん昇進し、部下ができ・・・。
気付けば事務職を取り仕切る立場になっていました。

前職で経験を積まれた営業職につきたい、という希望はなかったのでしょうか?

そうですね。事務には事務の大変さとやりがいがありましたから、
自ら進んで、という訳ではなかったのですが、
7年間事務職のトップとして働く中である時、営業部長に
「社内で働いている事務職に営業の大変さがわからない」と言われたことに
反発して「事務職も営業職もキチンとやる人はやりますよ」と啖呵を切って
個人のお客様に対する営業経験はありませんでしたが、
営業職に職種変更することになりました。

はじめてみて如何でしたか?御役所への営業と、個人のお客様の営業では、
金額もプロセスも違ったのではないでしょうか?

確かに最初は少額の契約だったのでやる気がでませんでした。
以前はお役所を相手に、3億円近い予算で仕事をやっていましたから。
しかし個人のお客様は会社のお金ではなく、自腹を切って契約して下さるのだということを実感すると、
やがて取り組み方も変わっていきました。金額が違ってもそのプロセスは実は変わらないのだということも知りました。

そして事務職を取り仕切る立場から営業職に異動したからには、恥ずかしい成績は残せないと感じていました。
半年間休み無しで働き、営業成績はすぐにトップクラスにになりました。
嬉しい気持ちもありましたが、ホッとしたのが本音です。
そしてこの時に営業としての管理職に就くことになり、部下を抱えるようになりました。

その当時、ご自分はどんな上司だったと思いますか?

当時は自分が頑張っていると言う自負があるからこそ人にも厳しくて。
指示命令系の上司だったと思います。
成績が悪いくせに休むな、という態度でしたし、いつもイライラしてしました。
チームの成績は確かに良かったですが、人間関係は良くなかったと思います。
成績が上がらない部下がいたら「営業には向かない」というレッテルを貼って異動させました。
優秀な人を集めたかったんです。
完璧な人が欲しくて「人を育てる」と言う気持ちがなかったんですね。
しかし実際に優秀な人材が来ると、体育会系の「こうやればいいんだ」「見て覚えるんだ」
という指示命令をすると、その行動に対する理由やロジックを求められるようになりました。
このままの自分のやり方ではこの先誰もついてこないと感じ、
精神的にも体力的も徐々に追い詰められて行きました。

そこから変わるキッカケはどんな所にあったのでしょうか?

そのころ、田園調布のロータリーの真ん前に新しくセコムの店舗ができることになりました。
そのオープン時の店長に抜擢されたんです。
高級住宅地である田園調布。失敗は許されないという状況でした。
就任すると新しい部下が増え、人を育てることにいよいよ力を入れなくてはいけなくなりました。
そして統轄店長になるときにコーチングを学ぼうと決意したのです。

ここに、今に繋がるコーチングとの出会いがあったのですね。

電話会議システムでコーチングを学ぶ事ができたので、働きながら時間をみつけて家で勉強しました。
私は始めにビジネスに特化したコーチ養成機関で学びました。
コーチングは「目標を設定し、現状を把握し、その差を埋めて行く」ということが大きな流れになります。
そこでまず部下に目標設定を毎日送ってもらい、そのフィードバックを毎日するようにしました。
1年半、毎日です。売り上げは35%アップして、エリアの評価はとても良くなりました。

ところが、私のやり方についてこれるひと、これない人が出てきました。
成績は伸びたけど人間関係が悪くなっている。
これを改善するために、今度は人に焦点を当てたコーチングを学ぶ事にしました。

ビジネスのコーチングだけでなく、人に焦点を当てたコーチングも学ばれたのですね。
人との向き合い方や、コミュニケーションについて学ぶということでしょうか?

そうですね。
自己基盤を見つめ直し、今に焦点を当て、本質的に変化することは可能であり、
人が持っている力を信じるということを学びました。
私自身、心や考え方が変わるような体験をさせて貰いました。

ライフに焦点を当てたコーチング。どのように会社に生かすチャンスが訪れたのでしょう?

そのとき名古屋に転勤する話を頂いて、今までと違うやり方で、新しく始められる良いチャンスだと思いました。
コーチングの勉強をして4~5年たち、名古屋でこれを試してみたいと言う気持ちで出発しました。
名古屋には1~2度降りた程度で土地柄のことも良く知らなくて、不安も少しありましたけれど、
今まで経験した失敗や学んできたことをどこまで活かせるか試してみようと決意しました。

実際に名古屋での生活、お仕事はいかがでしたか?

最初は部下が皆やたらに礼儀正しくて、なんでなんだろう?と思っていたんです。
実はその店舗には、10年前の、自分が指示命令系の上司だったときに部下だった男性社員が働いていたのです。
彼は私が「やる気が無いなら去れ」といって異動となった部下だったんです(笑
当然、彼は「とんでもないマネージャーが来るぞ」と私の事を事前に吹聴してたそうです。

それはお互いにビックリしましたね。
そのような雰囲気のなかでコーチングの成果は上手く出せたのでしょうか?

そもそも私が異動する前から、名古屋の店舗では上司と部下の折り合いが悪く、成績もボロボロという状態でした。
そこで私がエリアマネージャーと店舗の店長を兼任することになり、直接部下と話せる環境、
つまりコーチングの成果が出せるであろう環境はすぐにできました。
エリアマネージャーと店長の兼任を聞いた時は「無理でしょ~」と思いましたが、
始めてみると部下と直接話せる環境というのは反応がダイレクトでとても有難かった。
部下とは「成績を上げるにはどうする?」ではなく、「最高の職場環境にするにはどうしたらいい?」というテーマで
アイディアを出し合って実行しました。
するともともと土壌がいい名古屋での成績は1ヶ月でみるみる回復していきました。

そんなに早く結果がでるものなんですね!驚きです。

大切なのは意識が変わることなんです。
会社から振り分けられる目標ではなく、個人の目標を提示させて、どんどんコミットしていきました。
半年をすぎると上昇のスパイラルは安定して、60店舗中下位1割だった成績が1位になりました。
毎月、20日には目標達成しまうので、残りの10日は重要だけれど手付かずなことを自分たちのペースでできました。
名古屋に居たのは1年半だけなのですが、まず1年で最優秀店舗として表彰されました。
2年目に後任が来てからも、同じく最優秀店舗になったのを見届け、私はついにセコムを退社しました。

いよいよ起業を決意されたのですね。

やりたい事は人材育成、コーチングだと言う事はわかっていましたから、
名古屋では仕事とは別に、部下から希望があればコーチング面談をするということをはじめていました。
そこで個人のコーチングのトレーニングをしていたわけです。
そして有休消化が明けてすぐ、2015年2月に会社を立ち上げました。

辞める時に迷いはありませんでしたか?

最初は自信がなかったり、これからどうなるかなとか、心配もありました。
でも今は良い意味で吹っ切れています。なるようになる、と。
20年以上働いた会社では自分の先が見えてしまったのです。
私はその、見えてしまった石の橋を壊したくなったんだと思います。
なにもないところで生きたいと感じていました。
今はなにをやってもいいし、興味があるところにすぐに行けるのが嬉しいです。
凄く気持ちが楽になりました。

コーチとして社長として、為井さんが社会に伝えていきたいこととは、なんでしょうか?

「リーダーが変われば組織が変わる」ということです。
それを企業に伝えていきたい。株式会社にしたのは「企業」ときちんとお付き合いしたいからなんです。

為井さんの人材育成、コーチングの強みを教えて下さい。

自分の成功体験の押しつけから頭を切り替えて、リーダーとしての在り方、やり方を「継続して学べる」カリキュラムを作れるのが
私の強みです。
ラウンドレッスンと称して、1回や2回で終るプログラムではなく、継続して半年以上受けて頂くのが特徴です。
本当にその企業に伸びてほしいと思ったら、長くお付き合いすることが不可欠だと思っています。

これから力を入れて取り組まれたいことはありますか?

今後、増えるであろう女性管理職育成サポートプログラムに力を入れたいです。
現状まだ女性管理職の経験者が少ない中で、
やりかた次第で担当者よりもマネージャーのほうが楽しい、ということを率先して教えてあげたいですね。
管理職にはちゃんとメリットがあることを伝えたいのです。

女性を活用することが必要となった男性管理職の方々からセクハラ、パワハラ、マタハラなどに
どうやって対応すれば良いのかのやりにくさも聞いています。
その辺りにも役立つ研修を提供して行きたいですね。

起業なさってからのこの半年で、どのように営業活動をなさっていますか?

今は知人の紹介がメインですね。
有難いことに、損害保険会社、製造メーカー、IT企業様から研修やエグゼクティブコーチングのお仕事を頂いています。
勿論、これから一般の方からもオーダーが来るようにしたいです。
価値観や年齢や育った環境が違う人たちが一緒に仕事をする職場は増えていく一方ですから
ご提案先は無限かもしれませんが、まだまだお伝えしきれていません。
広い視野をもって営業活動をしていきたいです。

今、起業のリーダーに一番伝えたい事とはなんでしょうか?

リーダーに御伝えしたい事。それは自己開示をすることと、
真剣にはなってほしいけど、深刻になりすぎないこと。
深刻になっても成果は上がらないですから。

コーチングを通じてご自身が変わったと実感したことはございましたか?

コーチングを通じて一番私が変わった事は、人の可能性を信じることができるようになったことです。
最初から、できないとか無理だとか、思わない事です。
結果でだけでなく、プロセスも重要視できるようにもなりました。

これからご自分の会社をどんな風に成長させたいですか?

企業の役に立ちたいのは勿論ですが、
スキルと経験を兼ね備えたコーチ達を、自分と契約して下さった企業にゲスト講師として呼びたいですね。
例えば
1、「自分の強みを見つける」
2、「レゴブロックを使って自己開示し、成功のイメージをつくる」
3、「コーチングを職場で実践する」
この3つがセットになった研修を作ったりしています。各回の特徴に合わせてゲスト講師に協力して頂いています。

私以外のコーチがセミナーをやる機会を持つことで、コーチにも企業にもメリットがありますから。
そういう人と人とを繋いでいく役割もしていきたいと思っています。
企業の人材開発部のアウトソーシングのような存在として、継続的に関われたら嬉しいです。

インタビュー記事を通じて為井さんに研修やコーチングを御願いしたい!という企業さん、個人さんがいらした場合、
どこにご連絡すれば良いでしょうか?

研修は企業それぞれに合わせて作っていくため、お話を聞かせて頂くところから始まります。
コーチングは相性も大事ですから、最初は面談を申し込んで頂くことになります。
企業は勿論、個人のコーチングも承りますのでまずは下記websiteからお問い合わせ下さい。

http://www.triplehuman.com

セミナー情報などもありましたらぜひ教えて下さい。

トリプルヒューマンでは、仕事に役立つシリーズのセミナーを月1回開催しています。
11月は下記のセミナーを開催します。
【THセミナー5】仕事で活かせるファシリテーショングラフィック」のイベントページのURLは
http://kokucheese.com/event/index/340892/
です!ご参加御待ちしております。

為井さん、ありがとうございました!

2015-10-07 | Posted in intaviwNo Comments » 

 

インタビュー企画第11回株式会社Astiti Resort 代表 関根学剛さん

インタビュー企画第11回株式会社Astiti Resort 代表 関根学剛さん

< 関根学剛さんプロフィール>
sekine02

2014年4月、リゾートタイムシェア販会社である
株式会社Astiti Resort アスティティリゾート 設立。
インドネシア法人 CV . Astiti Resort 設立。
インドネシア バリ島でリゾート自社開発を行っている。

DK7A0381 DK7A2409

http://astitiresort.com

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

関根さん今日はよろしくお願い致します。
まずは子供の頃や、学生時代の思い出などから聞かせて頂けますか?

僕は埼玉県の越谷で産まれ、10歳(小4)まで過ごしましたが親の離婚で、
川口市(東川口)に移住しました。
そこで母親が再婚し、高校生まで川口に住んでいました。
小学校から少年野球に打ち込んでいたお陰でグレる事もなかったかと(笑
中学時代も部活に精を出し、チームで力を合わせた結果、
全国大会に出場する事も出来ました。
その甲斐あってか、高校も野球推薦で進むことができ、
甲子園出場を目指して仲間と部活に明け暮れていましたね。
男子校でしたので、まさに野球に捧げる青春でした

活発な野球少年でいらしたんですね。

そうですね。大学も野球の推薦で他大学に進学しました。
大学に進学してからも野球を続けていたのですが、
20歳の時に親が2度目の離婚することになり、学費と生活費が賄えなくなってしまったんです。
頑張って日中、夜間とアルバイトもしていたのですが、
そのせいで部活に出られない日々が続きました。
3年生に進級するとき、区切りを付ける為に、大学を辞めました。
2度目の離婚後、離れて暮らす事になりまして、僕自身は住む所も無くなってしまいました。

まだ19、20歳のころですよね。辛い事がつづき、野球からもチームメイトからも離れざるをえなく、
悔しい気持ちもあったことと思います。

悔しいという気持ちもありましたが、仕方がないという思いも強かったです。
それよりも明日も生きて行く為に今日頑張るしかないという感じでした。
そんなときに助けてくれたのが小中学校時代の幼なじみの友人でした。
友人は実家暮らしでしたが、独立したお兄さんの部屋を使わせてくれて、
転がり込ませてもらったんです。
ホテルの配膳の仕事をしながら2年間お金を貯めて、
なんとか友人の家からアパートへも引っ越すことができました。
2年間お世話になって、それだけでもありがたいのに、
その友人のお父さんの会社に22歳の時に正社員として就職させて貰ったんです。

ご友人とそのご家族に助けられて、お仕事を始められたのですね。
初めての就職先ではどんなお仕事をなさっていたのですか?

金属関係の町工場で、主にスクラップの仕分けをしていました。
朝早くからスクラップを取りに行って、ICチップなどを取り出す仕事なのですが、
日本はリサイクル産業が活発ですから仕事は忙しかったですね。
しかしその仕事をやりながら、夜はこっそり飲食店でアルバイトをしていました。
その当時は、お金を「創る」、「貯める」には労働しかないと思っていましたから。
ダブルワークを5年間やって、27歳まで働かせて頂きました。

意外ですが、町工場で働いていたことがキッカケで、一つの転機がありました。
仕事で金属を扱っていた関係から、現物での金の取引をはじめたんです。
当時はリーマンショックがあった時代で、仕事仲間のベテランのおじさんから
「金は絶対に無くならないから」と進められたのきっかけでした。
そうして、ダブルワークで貯金したお金は貴金属店で「金」に変えました。
その時は増えたらいいなぁくらいだったんですけれど、
その後に金の値段がグッと上がり、持っているだけでどんどん価値が上がって行く事を体験できました。
初めて『金融ってすごく面白いな』と、目覚めたんです。
それまでは自分の仕事とバイトを必死にやっていましたが、
これを機にビジネスやお金のことをもっと学ぼうと決めました。

確かに金を扱う町工場の方の言葉は、金融マンが言うよりもよっぽど説得力がありますね。
その後、実際にどうやって金融やビジネスについて学んでいったのでしょうか?

もっと勉強したいと思っていたとき、独立して金融の仕事をしている知人と、
草野球を通じて偶然再会するという出来事がありました。
ずっと大好きだった野球が繋げてくれた御縁ですからどこか運命的なものを感じて、
『働きながら金融の勉強させて貰えないか』とお願いしたんです。
その方は銀座で株取引などの学校を開いている方で、自分の熱意を伝えると、なんとか良い返事を頂く事ができました。
当時はまだ町工場で働いていましたが、就職させてくれた友人や友人の家族に感謝をするとともに、段々と独立心も芽生えていた時でした。
転職したいとはとても言いづらかったですが、どうしても金融の勉強がしたくて、
辞めさせてもらいました。

学びたいという意欲が転職を決意させたのですね。
本当に自分がやりたい事に少しづつ近づいていっている感じがします。

そうですね。27歳という年齢的にも、自分のやりたいことは何なのか、
自分とは何者なのかを考えていた時でした。

就職先の銀座の学校での講義に、
自分も参加して基本的な株のチャートの読み方などを勉強しました。
そこでは沢山の学びと同時に、志の高い人との出会いも多くあり、3年ほど働いたときには海外での不動産会社立ち上げをサポートする機会もありました。
震災後だったこともあり、マレーシアなど海外の不動産への需要を感じる事ができました。

そんな折に、名古屋でエステを経営されている知人がバリ島でもお店を出す事になり、
現地に行くと言うので、僕もついて行ったんです。
ダイビングが好きだったので、旅行気分でした。
31歳初めてのバリ島。今思えばこれがまた大きな転機でした。

バリ島でビジネスをするにあたって、現地でのビジネスパートナーは不可欠です。
僕はこのとき、エステ経営者の方に紹介して頂き、
今のビジネスパートナーに出会いました。
最初は土地が余っているからどうにか有効活用したいんだけど、
と気軽な感じで相談されたんです。
海外の不動産売買については、不動産会社立ち上げを経験して勉強してきてましたから、
僕自身はその言葉にすごく興味がわきました。
このことをキッカケに彼から、
バリ島内の売買の需要がある土地を見せて貰うことになったんです。

こうしてお話を伺っていると、関根さんは人と出会い、引き寄せ、
ビジネスを繋げるチカラがすごい方なのだと感じます。

確かにこの現地のビジネスパートナーと出会わなければ、
今の僕のビジネスはできなかったですね。
そしてバリ島に連れて来てくれた名古屋の起業家の方に出会わなければ・・・
そう考えると本当に人との出会いと人間関係が僕の世界を広げ、
より成長させてくれているんだと実感します。

素晴らしい出会いがあり、バリ島でのグローバルなビジネスがスタートするんですね。

ビジネスパートナーと一緒にバリ島を何度も視察するなかで、
バリ北部随一のビーチリゾート、ロビナの環境や値段を知ってからは、
『ここに高級プライベートヴィラを立ててタイムシェアシステムのリゾートを作ろう』
と明確なモデルもでき、ビジネスチャンスだと確信しました。
最初に計画していたときは日本人の起業家仲間もいたんですが、
それぞれすでに事業をお持ちの先輩方だったのでそこまで時間の余裕もなく・・・
ならば自分1人でもやりたい!という思いで、ついに
Astiti Resort(アスティティリゾート)立ち上げを決めたのです。

タイムシェアシステムとは、どんなものなんでしょうか?

そもそもタイムシェアシステムとは年を利用可能区分に分け、
高級プライベートヴィラの部屋の使用権を、
手頃な価格にて購入いただけるシステムのことです。
権利を購入して頂く事で毎年、
バリ島での高級プライベート ヴィラで暮らすような贅沢な旅をお楽しみいただけます。
また、弊社は大手タイムシェア交換会社に加盟を予定しています。
加盟後は世界各国のタイムシェアリゾートにも宿泊可能になります。例えばハワイなど…。
ご購入いただいたオーナー様は、建物の権利証(使用権)が発行され、
ご自身の利用可能物件(区分使用)として財産となります。
この使用権はお子様からお孫様へと代々お譲りいただけるのも特徴です。
大切なご友人を御招待することも可能なんですよ。

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プレゼントにもできて相続もできるとは知らなかったです。
世代を超えて引き継いでいける夢のようなリゾート施設とはなんとも素敵ですね。

私自身バリ島に惚れ込んでいますし、ヴィラの建築デザインなど、
高級リゾートとしての環境にも並々ならぬこだわりがあります。
また、近年着工予定のバリ島北部の新空港から、ヴィラのあるロビナまでは車で30分ほどと、
これから交通の便もさらに良くなる事がわかっています。

ロビナという土地に出会ったのが今から2年半前、会社を立ち上げて1年が経ちました。
最初は拙い事業計画書を持って投資をお願いする日々でしたが、
時間をかけて投資家の方から多くの出資を頂き、
土地の購入や会社の立ち上げを実現することができました。
開発を進めながらタイムシェアの権利購入の営業もはじめ、
御陰さまでプレビルドではありますが販売は順調で、
現在では110名を超えるオーナー様にご契約頂いております。
オープンはこれからなのですが、
ヴィラはもう建っている場所もあるのでお客様に視察に来て頂いたりもしています。

最近ではテレビ出演もされたのですよね。

はい。千葉テレビの番組で取り上げて頂きました。
お笑い芸人のナイツさんの司会で、楽しく我が社を紹介して頂く事ができました。
これからも多くの方にアスティティリゾートを、
そしてバリ島のタイムシェアリゾートの本当の価値を知って頂きたいです。

沢山の貴重なお話をありがとうございました。
最後になりますが、これからの展望をぜひお聞かせ下さい。

まずはヴィラをオープンさせて基盤をしっかり築きたいです。
世代を超えて引き継いでいける、価値ある財産って、
やっぱり形に残せる愛情そのものだと思うので。
そういう思いも伝えながら営業していきたいですね。

そしていつか日本から高齢者の方をお迎えできるような施設を作りたいと考えています。
バリ島の美しい環境で老後を過ごせる介護施設があったらと。
日本から介護の資格をお持ちの方やお医者さんをお呼びして、
現地で技術やノウハウを提供して頂けたら、そこで新たな雇用も生まれると思います。
タイムシェアリゾートを基盤に、バリでのビジネスを広げて行きたいと思っています。

あとはプライベートなことですが、
結婚して息子も生まれたので父親としてもがんばりたいですね。
息子と一緒に野球がしたいです。

関根さん、ありがとうございました。

タイムシェアリゾートの詳細、
説明会などの情報は下記サイトよりご覧下さい。

http://astitiresort.com

 

会社資料はこちらからダウンロードできます。

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2015-05-22 | Posted in blog, intaviwNo Comments » 

 

インタビュー企画第10回 特定非営利活動法人かものはしプロジェクト共同代表 村田早耶香さん後編

インタビュー企画第10回 
特定非営利活動法人かものはしプロジェクト共同代表 村田早耶香さん後編

 

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<村田早耶香さんプロフィール>
東京都調布市出身。
フェリス女学院大学国際交流学部卒業。
特定非営利活動法人かものはしプロジェクト共同代表。

 

~はじめに~

『子どもが売られない世界を作る。』
特定非営利活動法人かものはしプロジェクトは、
子どもがだまされて売られてしまう問題を解決するために、
2002年に設立されました。

①子どもを買う人を取り締まる
②大人に仕事を、子どもに教育を
③売られてしまいそうな子どもを保護する

子どもを守るこの三つの取り組みを行うため、
サポーターからの協力を得て、
カンボジア、インドで支援活動を進めていらっしゃいます。
今回のインタビューでは、共同代表 村田早耶香さんに、
設立の経緯、それからの13年の取り組みについて、貴重なお話を聞く機会を頂きました。

かものはしプロジェクトさんのWEBサイト
http://www.kamonohashi-project.net/

 

 

<村田早耶香さんインタビュー 後編>

後編ではプロジェクト立ち上げからの活動内容について
詳しくお聞きしたいと思います。

かものはしプロジェクト立ち上げ当初、子どもの人身売買が酷かったのがカンボジアでした。
ですからまずそこでの現地調査を行いました。カンボジアでの現地調査では内戦後に5、6歳の子どもまで被害に合っている現状がわかり、カンボジアでの活動を決めました。

児童労働のなかでも最悪の形態の児童労働と言われているのが児童買春問題です。
子どもは家庭の貧困を主な理由に、騙されて売春宿に売られてしまいます。
暗くて狭い売春宿の奥に閉じ込められた子どもを、誰かが救おうとアクションを起こさなければ、
その子たちはなかなかそこから出られないのです。
子どもの身を守る為には親が手に職をつけて自立することが大切だと考え、コミュニティファクトリーを立ち上げ、職業訓練のサポートも行いました。
カンボジアの天然素材である、い草やココナッツの葉を使った生活雑貨を作り、それを販売しています。持続可能なビジネスを成立させることで貧困から抜け出し、子どもが売られずに生活できるように支援しています。

そして、カンボジアで一番の問題だったのは、人身売買を取り締まるはずの警察が、取り締まりを行えていなかったことでした。かものはしプロジェクトでは警察が法律や取り締まりの仕方を勉強したり訓練したりするサポートをし、その結果、子どもを買う人の摘発数は伸びて行きました。

 

 現在ではカンボジアだけでなく、インドにも活動の場を広げたと資料で拝見しました。それはカンボジアでの被害者が減少傾向へ向かったことが大きかったのでしょうか?

 

そうですね。活動をはじめて10年以上がたった現在、カンボジアでは子どもが人身売買の被害に遭う事は少なくなっています。一時は保護される子どもで施設の定員がオーバーするほどでしたので、改善に向かっている事を実感しています。

 

インドでの支援とカンボジアでの支援になにか違いはありますか?
人身売買の起こる原因にも違いがあるのでしょうか?

 

先ほど申し上げた通り、カンボジアでは警察が取り締まりをできていなかったことが大きな原因でした。
インドでは、子どもを村から人身売買した人が裁判で有罪にならないという問題がありました。特に、人身売買が多発している州で刑事司法制度が機能していないことが多く、それ故に人身売買に加担した人間を裁く事ができないのが問題だったのです。

ですからインドでは現在、裁判の支援をする活動を行っています。
具体的には被害にあった子ども・女性の中で戦う意思のある人達が、裁判で戦えるようにサポートをしています。裁判で勝てるかどうかはケースバイケースですが、被害者が泣き寝入りをするしかなかった状況を変えるために、戦う意思のある被害者が声を上げて裁判で戦えるように支援をすることは重要です。

人身売買にはルートがあるんですが、今は被害者が一番売られてきているマハラシュトラ州と、被害者を多数出している西ベンガル州で活動しています。西ベンガル州では、人を騙して売春宿に売った加害者に、裁判でほとんど有罪が出ていない地域もあります。有罪にならないので、「人を売ったもの勝ち」というひどい状況になってしまいます。

ですからここで罪を犯したらきちんと罰せられる、裁かれるという状態を作らなければ、抑止力は働かないのです。
逆に言えば人身売買の多いこの地域で罪を犯した人を罰することができれば、抑止力が働き、こういった犯罪を犯す人は減って行きます。

また、インドは「インド人自身の力で国を変えていきたい」という自立心が強いという特徴があるので、インド国内の団体を応援するという形で活動をしないとうまくいかなくなること多いと感じています。ですので、インドの人達と一緒に変えて行く事が重要だと考えています。

 

かものはしプロジェクトさんに寄付をしたお金は、具体的にどんなふうに使われるのでしょうか?活動内容ももう少し伺いたいです。

 

インドは、6つの現地パートナー団体と一緒に活動をしています。活動の戦略を考えることも一緒に行っています。
現在の活動は、被害者が人生を取り戻し、裁判で戦うための支援をしています。頂いた寄付はそれらの活動をするための資金として使っています。
裁判の結果がでるまで5年くらいかかるので、雇われながら裁判をするのはとても難しく、自分のお店を開いて自分や家族の生活を支えて行く必要があります。そのビジネスをサポートする資金としても使っています。また、裁判で戦うためには被害者が精神的に回復していることが重要ですから、定期的なカウンセリングの支援も行っています。

騙されて売られて、売春をさせられ、傷ついて・・・やっとの思いで村に帰ってきたのに、そこでは差別を受けて、引きこもってしまう子もいました。そんな子が、サポートを受けて少しづつ回復し、お店を出して、裁判で証言をして、だんだんと村のリーダーになっていく。寄付という支援に後押しされて、逆境に立ち向かい、再び立ち上る奇跡が実際に起きているのです。

 

活動内容についてお伺いして行くと、私達もぜひ会員になって支援をしたいと思う気持ちがわいて行きます。個人でも企業でも応援ができるそうなのですが、例えば企業で会員になった場合、会社にはどんなメリットがありますか?

 

法人の場合や経営者の方がかものはしプロジェクトに賛同してくださり支援していただくことが多いのと、社員の有志の方々からのご紹介で会社として支援していただくこともよくあります。

例えば就職したい会社を選ぶとき、その会社がどのような社会貢献をしているかどうかを見るのは大切な事だと思います。かものはしプロジェクトに賛同してくださっているという事が、その会社の社会貢献に対する姿勢や、メッセージになると思います。

また、法人の会社のなかで社員の方々へ向けた講演をさせて頂く機会もあります。講演を通じてご自分の業務へのやりがいを感じて下さったり、改めて会社への愛着を感じてくれる方も多いようでした。
このように法人での講演活動は社員教育の一貫としても非常に喜んで頂いていますね。

かものはしプロジェクトは”子どもの未来を守る活動”をしていますので、共感して頂ける経営者の方や社員の方とこれからも沢山出会えると信じています。
会社のパンフレットやwebsiteに、かものはしプロジェクトを支援しているということを明記することで、会社の信頼や支持が少しでも向上したら、それはとても嬉しいことです。

個人会員についてはいかがでしょうか?なにか自分にできることはないだろうかと、なかなか行動に移せないけれど、思っている方は多いと思うのです。

 

興味を持ってくれた方に、まずはインターネットで団体について調べて頂ければ嬉しいですね。そして自分に合った団体を見つけてほしいです。

考え方、支援の仕方、支援の先、色んな意義のある活動をしている団体がありますから、自分の考えやスタンスに合うかどうかがとても重要だと思います。そして資料請求をしたり、講演を聴きに行ったりする中で、自分にできる社会貢献について考える機会を持つ事が、実は一番大切だと思います。

“自分にできる社会貢献について考える機会を持つ事”
今回村田さんのお話を伺うことで、私にもその機会が訪れたように感じます。
インタビューをご覧のみなさんも、個人会員、法人会員についてご検討頂ければ幸いです。
村田さんありがとうございました!

かものはしプロジェクトさんのWEBサイト
http://www.kamonohashi-project.net/

 

 

2015-05-17 | Posted in blog, intaviwNo Comments » 

 

インタビュー企画第10回 特定非営利活動法人かものはしプロジェクト 村田早耶香さん前編

インタビュー企画第10回 
特定非営利活動法人かものはしプロジェクト共同代表 村田早耶香さん前編

 

murata01
<村田早耶香さんプロフィール>
東京都調布市出身。
フェリス女学院大学国際交流学部卒業。
特定非営利活動法人かものはしプロジェクト共同代表。

 

~はじめに~

『子どもが売られない世界を作る。』
特定非営利活動法人かものはしプロジェクトは、
子どもがだまされて売られてしまう問題を解決するために、
2002年に設立されました。

①子どもを買う人を取り締まる
②大人に仕事を、子どもに教育を
③売られてしまいそうな子どもを保護する

子どもを守るこの三つの取り組みを行うため、
サポーターからの協力を得て、
カンボジア、インドで支援活動を進めていらっしゃいます。
今回のインタビューでは、共同代表 村田早耶香さんに、
設立の経緯、それからの13年の取り組みについて、貴重なお話を聞く機会を頂きました。

かものはしプロジェクトさんのWEBサイト
http://www.kamonohashi-project.net/

 

 

<村田早耶香さんインタビュー 前編>

村田さん、今日はよろしくお願い致します。
まずはお生まれなど、小さい時のお話から聴かせてください。

私は東京の調布市で生まれました。
子どもの頃は性格的におとなしいほうでしたが、芯は強かったと思います。
アニメなどTVのなかでも、悪い事が横行していたり、
悪い人がのさばっているような描写があると、
なぜ?そんなの許せない!という思いが幼い頃からありました。

優しく、正義感がお強かったのですね。
問題意識や改革意識を持つ姿勢は、
お父様、お母様の教育方針もあったのでしょうか?

そうですね。
父には小さい頃から日本の問題だけでなく世界で起きている問題について、
興味を持つように自然に教育されたと思います。
国内外のボランティア活動等についても、父から話しをきいていました。
それは両親からの「人の痛みがわかる人間になりなさい」というメッセージだったと思います。

学生時代に印象深かったボランティア活動やエピソードがありましたら、
是非教えて下さい。

中学生の頃に、お年玉の1万円をタイの同い年の女の子に寄付することができたら、
彼女は1年間学校に通える、ということを知った時は衝撃的でした。
国の違い、物価の違いでこんなに生活や教育に差があるのかと知ると同時に、
私が持っている1万円があれば、誰かを救えることもあるのだと、
希望にも似た思いが涌き上がりました。

もっと自分に何が出来るか知りたい、勉強したい、という想いを持たれたのですね。

そうですね。
同じ頃、国境なき医師団の映像をテレビで見て、
日本人の医師の方による草の根の支援にも感銘を受けました。
それは、もっと本格的に勉強したいと思うきっかけになりましたね。
ただ、普通の15,6歳の子どもがすぐに海外へ向けた支援に参加できるかというと、
やはり難しく、大学に行ったら思いっきり学ぼうと思っていました。

高校時代は部活動の和太鼓に夢中になっており、地方に演奏しに行ったりと、
とても忙しく過ごしていましたので・・・
実は受験勉強には少し出遅れてしまったのですが(笑
引退後の夏から勉強をし始めて、
海外支援の勉強ができるフェリス女学院大学国際交流学部へと進学する事ができました。

村田さんの芯の強さが部活に勉強にと、発揮された高校時代だったのですね。
希望の学部へ進学し、大学での勉強はいかがでしたでしょうか?

入学してからすぐに地雷の勉強をしました。
ちょうどそのとき、
地雷をなくす活動でノーベル平和賞を受賞したジョディ・ウィリアムズさんが、
大学に講演に来て下さることになったんです。
構内で学生達にジョディさんの活動をより知ってもらえるよう、勉強会を開催するなどの活動をしました。
それがきっかけで学生代表として、ジョディさんの講演後のパーティーでスピーチをする機会を頂きました。
ジョディさんの講演で印象的だったのは、”政治家でもない一般の女性が世界を変えた”という事実でした。
ジョディさんも小さい頃はおとなしい性格だったそうで、すごく共感しました。
自分をより良い方向に変える努力をするのと同じように、世界をより良くする努力をする。
その、”私たちにもできる”と感じさせてくれたことが嬉しかったですね。
その気持ちを素直に表現したスピーチも、ジョディさんは大変喜んで下さいました。

ジョディさんは『地雷のない世界をつくる』という目標に臨まれ、
村田さんは現在『子どもが売られない世界をつくる』という目標に取り組まれておりますが、そのきっかけはどんなことだったのでしょうか?

大学2年のときの授業で、世界には子どもが売らてしまう場所がある、
女の子が売春を強要されている場所があるという現実を知りました。
被害にあったとされる子どもの年齢は、当時の私と変わりませんでした。
その子が12歳の時から売春をさせられていたとききました。
生まれた場所が違うだけで、
片方は生活することすらままならず生きる事に精一杯なのに、
片方はどうやって勉強をさぼろうか考えている。
騙されて売られ、虐待を受けて亡くなった少女の『勉強したかった。』という言葉を、
私は世界に届けたいと思ったのです。

かものはしプロジェクトの立ち上げ前は、
とにかく子どもが売られてしまう現実があるということを知ってもらう活動を一人でしていました。
NPO団体や、ボランティア団体などに沢山顔を出して、
多くの人に会いに行って話をしたり、聞いたりしました。
そのなかでわかった事は、例えば地雷のように、
問題が解決へと向かっている事もありましたが、
当時この子どもの人身売買については取り締まりに課題があり、被害者が減っていないということでした。
つまり誰かがやり続けなければいけないということを強く感じたんです。

ご自分がそのやり続ける人になると、志されたのですね。
そこでいよいよプロジェクト立ち上げに至るのですね。

そうですね。共同代表の2人とは大学の勉強会で知り合ったのですが、
2人は最初はそこまで海外の問題に関心を持っているわけではなかったようです。
しかし、私の”子どもが売られる問題を無くしたい”という強い想いや、
悲しい現実の問題についてを話しているうちに、
次第に興味を持ってくれるようになり、
「応援したい、協力したい!」と言ってくれるようになりました。
このように、はじめは大学生3人がスタートさせた、半年間のプロジェクトだったのです。

それがこうして13年にも続く、大きなプロジェクトとなっていったのですね。

こちらで幼少期~学生期として、いったん前半部分を終了させて頂きます。
後編はより具体的な現在の活動についてお伺いして行きたいと思います。
どうぞよろしくお願い致します。

 

 

かものはしプロジェクトさんのWEBサイト
http://www.kamonohashi-project.net/

ぜひこちらも合わせてご覧下さい。

 

 

 

 

 

2015-05-07 | Posted in blog, intaviwNo Comments » 

 

インタビュー企画第9回 株式会社MASUKO代表取締役 増子慶久さん

インタビュー企画第9回は 株式会社MASUKO代表取締役 増子慶久さんにお話を伺いました。

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<増子慶久さんプロフィール>

1967年東京生まれ。
中小企業診断士 マーケティング経理プロデューサー。
小規模事業者専門の経営コンサルタント。
現在は、「ビジョン共感型経営計画書」の作成を通じて、
業績向上を支援する活動を行っている。
また、経理の力で 黒字経営の仕組み化を実現するメソッド
「マーケティング経理」の提唱者であり、 経理の仕組み改善や、
経理スタッフ・起業家の育成支援に も力を入れている。
「“‘財務”で現状を客観的に分析し、“コーチング”で 未来を描き、
“コンサルティング”で改善プロセスを提案する」
という一貫性のある独自のコンサルティング スタイルが、
経営者の納得感・安心感を高め、
97%のクライアントが複数年契約を結ぶなど信頼と評価を得ている。

株式会社MASUKOのウェブサイトはこちらhttp://masuko-mc.co.jp/

 

 

まずはコンサルタント増子さんのルーツをさぐりたいと思います。
小さい頃はどんなお子さんでしたか?

 

私は東京の葛飾区で生まれ育ちました。
その頃は家の周りは緑がいっぱい残っていましたから、
夏は毎日虫かごを持って走り回っていましたね。
小学校の頃は相撲が好きで、友達と朝から自転車で蔵前国技館までよく行きました。
こっそり支度部屋に潜り込んで、先代貴乃花から叱られたこともありました(笑

 

ご家族、とくにお父様はどんな方でいらっしゃったんですか?

 

父は新聞の印刷会社で、記事の執筆や写植編集をやっていました。
職人気質で無口なタイプですが、その分怒った時は怖かったです。
あまり家庭を顧みることなく、ストイックなほど真面目に働く父に、
「何のためにそんなに 働くのか?」と、
中高時代には反抗してしまうところもありました。
今考えると、中学とか高校の頃は父だけでなく、
世の中全体に対して不満とか反抗心を持った子供でしたね。
尾崎豊の歌にとても共感したりしていました。

 

今の増子さんの御優しい雰囲気からは想像できないです。
お考えが変わった・・・つまり、成長をご自分で感じられたのはいつ頃ですか?

 

それまで仕事命だった父が定年で毎日自宅にいるようになり、
その背中を見ていたら、ちょっと寂しげで小さく見えたんです。
あんなに一生懸命働いてきたのに、かわいそう、何とか元気づけたい!
と思うようになりました。
その時が私の成長のきっかけだったと思います。
病を抱えていても弱音一つはかず、いつも明るく元気に家庭を灯し続けてくれた母にも
恩返ししたいという気持ちも強かったですね。
これからは私が家族を守りたい、助けたいという大人の自覚、
というか責任感みたいなものが芽生えた時期でした。
そこで、就職したらお金を貯めて、狭い団地住まいから脱却して、
皆が伸び伸び暮らせるようなマイホームを買おうと決めたんです。

 

素晴らしいですね。
また、“自分が元気づけたい”というお言葉に、今のお仕事に通じる増子さんの想いを感じます。

 

ありがとうございます。
それで、社会人 4 年目でローンを組んで郊外に家を購入しました。
農園を借りて野菜作りに勤しむ父や、庭で園芸に励む母を見て、
新しい生き甲斐を見つけてくれたんだな、とても嬉しく思いました。
振り返ると、青春時代のあの反抗って何だったんだろうという感じですね(笑

 

思春期のころ、悩まれたり、落ち込んだりしたからこそ、優しい心が育まれたのですね。
中高時代のことももうすこしお聞かせ頂けますか?

 

中学時代は卓球に夢中になっていました。
ちょうど金八先生の放映が始まった頃で、
あの番組同様、うちの中学も荒れた中学でした。
いわゆるツッパリという不良生徒達がいたのですが、彼らの多くがなぜか卓球好き。
休日は、彼らと児童館や卓球場などで賑やかに打ち合っていたのが楽しい思い出です。
不良生徒といっても、根っからの悪はいない、
自分を表現するのが下手だからつっぱっているだけ。
私自身は真面目タイプの生徒でしたが、
特に勉強ができるわけでも運動ができるわけでもありませんでした。
そんな不器用な連中が、エネルギーを発散する場が卓球だったのかもしれません。
現在のクライアント先の社長が、切れ者タイプより不器用タイプが多いのは、
たぶん私が不器用タイプの人に魅力を感じるからかもしれませんね。
高校時代は、一転暗かったです(笑
何かに打ち込むでもなく、「人生とは?」とか「人は何のために生きる?」みたいなことを、
ひたすら考えていた 3年間でした。
漠然とした不安や悩みが押し寄せるなかで、その解決方法がわからなかったんですね。

 

今、コンサルタントとしてご活躍の増子さんにとっては、
目の前に自分で解決できない悩みがあるということは人一倍辛かったと思います。

 

そうですね。辛いというよりも、先の見えない不安の中、
懸命にもがいていた時期だったかもしれません。
でも、その中で一つだけ気付いたことがあります。
それは「人は幸せになるために生きる」ということです。
たぶん高校 3 年生ぐらいだったと思いますが、自分にとっては大発見でした。
幸せになるというゴールがハッキリしたのは、
いろいろ悩んだからこそ気付けた成果だったと思います。
でも、「そもそも幸せって何なのか?」、
「そうすれば幸せになれるのか?」といったことは 依然わかりませんでした。
16 や 17 の子供にそれを求めても無理ですよね(笑
その辺の葛藤が、今思うと「悩みを解決して経営上の不安を取り払う」
という今の仕事の 使命に引き継がれているのかもしれません。
少しずつ、問題解決や何かを改善するということに興味を持ち始めまめ、
大学では、商学 部で会計学を専攻しました。
お金について学んで、社会に出てちゃんと稼げるようになりたい、という気持ちもありましたね。
また、学業の傍ら、様々なアルバイトにも精を出しました。
土建屋、ファミレス、商品の入出庫管理、通販受付、煎餅屋、
DM発送等々、様々な業種 の仕事を直に知ることができたのはとてもいい経験でした。
大学四年のとき会計事務所でアルバイトさせてもらっていたんですが、
そこにそのまま就職しました。

 

その会計事務所ではどのような業務をされていたのでしょうか?

 

中小企業の経理指導、税務相談、決算、申告などの業務をしていました。
延べ 1000 件以上の決算書作成に関わり、様々な業種、
業態のビジネスモデルや成功事例を学ぶことができたのが私にとっての財産となっています。
安定的に仕事が入ってくるので所員としてはきちんと仕事をさせていただいていましたが、
やはり不況の波の中で考えを変えなければいけない場面もありました。
会社の決算や税金計算は過去と向き合う仕事なんですね。
でも私は会社の未来と向き合いたかった。
経営状況が右上がりであれば、節税の案件などはとてもやりがいがあって面白かったのですが、
働き出して5年ほどでバブルも弾け、その後リーマンショックもありましたよね。
利益が沢山出ない限り節税対策なんてあまり必要ないわけです。

 

なるほど。決算書制作を通じで会社の数字に強くなる一方で、そこから見えて来る
今の時代ならではの問題に気付かれたのですね。

 

そうですね。時代の流れの中で、
これからは財務をベースに置きながら
会社の業績を上げるサポートをしていかなくてはいけないと痛感することが増えました。
担当している会社の社長さんとは本当に良いお付き合いをさせて頂き、
また人格的にも優れた方が本当に多かったんです。
もっと会社を応援したい、社長さんの相談役になり、
売上向上や社員教育などもっと会社に貢献したい。
その想いはやがて経営コンサルタントになりたいという目標になりました。
勉強を重ねる中で気付いたのは、今の時代にとって価値のある仕事、
お客様に喜んで頂ける仕事というのは、今まで通りの仕事ではないということです。
時代のニーズに合わせて自分の仕事を創造していかなければいけない。
その想いの結果が、今行っている“財務を切り口とした経営コンサルティング”なんです。

 

現在の事業や想いについて、ぜひ詳しく御聞かせ下さい。

 

私の経営コンサルティングでは、
『‘財務”で現状を客観的に分析し、“コーチング”で未来を描き、“コンサルティング”で 改善プロセスを提案する』
というスタイルを採っています。
具体的には、

・資金繰りや、商品別
・顧客別等の損益分析など“財務”で会社が置かれている現状を把 握し
・様々な視点から質問して、社長が望む未来を明確にする“コーチング”で理念やビジョンを言語化します。
・その上で、問題点の抽出と改善策、改善プロセスを提案する“コンサルティング”を実施します。

長年、会計事務所で働いてきた経験からわかったことですが、
中小企業の社長は、「自分一 人で何とかしなければいけない」
と必要以上に自分にプレッシャーをかけてしまう方が多いのです。
また、今までのやり方を変えられない、
変えるきっかけが掴めないという方も多くいらっしゃいます。
確かに経営者とは孤独なものなのかもしれません。
しかし、だからこそ一度、会社外の人間である私に相談してほしいと思うんです。
業績が良くないのを景気や値下げ競争のせいにしてしまったりしていると、

・この会社をどうしたいのか?
・自分はどう経営していきたいのか?

という前向きな未来の姿を見失ってしまいます。
私は社長さんが抱える悩みや未来へのイメージをちゃんと共有したいと思っています。

 

多面的にコンサルティングを行っているんですね。

 

財務上の数字で表される客観的なゴールと、
社長さんの心が満たされるマインド面のゴールを重ねた上でご提案するのが
「ビジョン共感型経営計画書」です。
これは、会社のあるべき姿から個々の行動計画まで、
アルバイトで働く人でも理解、実行 できるようストーリー仕立てで作っています。
よく経営コンサルティングというと、
「ああして下さい」「こうして下さい」とルールが書 いてある資料を渡して、
その通りにやってもらうことを一方的に要求するようなものもありますよね。
でも私は、社長さんや従業員の方々それぞれが納得して、
行動してくれないと会社は良く ならないと思っています。
今自分が働いている会社には何が必要で、
その為に自分が何をすべきかを具体的に知ってもらうことが大切です。
自分が会社の経営に関わっているという意識がとても重要なんですね。

 

そうですね。たとえアルバイトでも、自分の立てた売り上げが会社にどれだけ
貢献しているかが、実感できたらやる気も上がりますよね。
なにより自分が会社に必要とされているという事が感じられると思います。

 

その通りです。
そしてその意識を持ってもらうためには、
社長はもっとスタッフのことを知らなくてはいけないのです。
スタッフの持っている夢や希望について、耳を傾ける心の余裕が必要です。
会社の主役はスタッフであるという意識を持って頂きたいですね。
売上のこと、経営のことで頭がいっぱいで疲弊してしまうような時こそ
経営コンサルタン トに悩みを相談して心にゆとりを持ってほしい。
私はそう思いながら仕事をしています。
気持ちが変われば行動も変わる。
今まで担当させていただいた会社様の中にも、
意識の改善で目を見張るような業績を上げてくれる方が多くいらっしゃいました。
こういう経験は、仕事へのやりがいを感じますね。

 

増子さんの幼少期からのストーリーを聞かせて頂くと、
過去がキチンと未来に結実していることを感じます。

 

私自身の過去を振り返ると、
なかなか悩みを相談できなかったり、
解決策を自分だけでは見いだせなかったりした経験があるんですね。
先の見えない悩みを抱える苦しさを知っているからこそ、
心から親身になって仕事ができるのだと思います。

 

最後に経営者の皆様へメッセージを御願い致します。

 

私は中小企業の社長さんに、自信を持ってもらいたいです。
そのためには、今の場所から少し高い見晴らしのいい場所に私と一緒に登って、
新しい景色を見ていただきたいのです。
今、あなたが見ている景色が全てではありません。

・次々に生じる問題に振り回されている社長
・半年先の経営状況が見えずに不安に感じている社長
・自社のお金の流れがどうなっているのかわからない社長
・社員との距離感を感じている社長
・経営者としてワクワクするビジョンが描けない社長

そんな社長さんに経営改善のレシピをお渡しするのが私の仕事です。
方法は簡単。会社の潜在的な強みを引き出し、
言葉化してスタッフや顧客に伝え続けることです。
これができれば、業績は向上します。
そして、いつも見晴らしのいい場所から自社を眺めることができ、
時間に追われず経営者 本来の仕事に取り組むことができるようになります。
私は、そのお手伝いをすることができます。
幸せな会社を作るために、私と一緒にまず、初めの一歩を踏み出しましょう。

 

増子さん、ありがとうございました!

 株式会社MASUKOのウェブサイトはこちらhttp://masuko-mc.co.jp/

2015-03-14 | Posted in blog, intaviwNo Comments » 

 

インタビュー企画第8回 一般社団法人メンタルバランス研究所専務理事 宇佐見彰さん 後編

インタビュー企画第8回後編では、ひきつづき、
一般社団法人メンタルバランス研究所 専務理事、
株式会社リアルパートナー アドバイザーの
宇佐見 彰さんにお話を伺いました。

 

前編はこちら

 

宇佐見 彰さんプロフィール
Ike_
昭和46年英国ソニー、ソニーオランダ駐在員
昭和47年NATO(北大西洋条約機構軍)PXビジネスソニー全権代表
昭和48年ソニーフランス設立
昭和60年ソニー本社退職
昭和61年(株)ビジネスカルチャーセンター設立
(社)日本お助け隊 隊員
(社)メンタルバランス研究所 理事
(社)スウェーデン社会研究所 理事
ソニーOB会 理事

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

未来の自分に手紙を書こうとして、3年も掛かってしまった。
前回はそこまでお話して下さいました。

そうですね。
つまりそれは、10年先の自分に「今何してる?」と書こうとして、
その返事が全く思いつかなかった、ということなんですが・・・
それを突き詰めるうちに、
自分はなんの為に生きているのか?
そういう事を考え続ける日々がつづき、ついにソニーからの独立を決めました。


独立後はどんな会社を経営なさっていたのですか?

 

ソニーから独立し、
まずアメリカの工場時代に培った「ドキュメンテーション」(業務説明書)作りをベースに、
営業マンの営業プロセスをデータベース化し、
営業成績を底上げするというシステムを開発しました。
営業マンの個人の力量や経験則に頼らず、
成功事例から営業時の持ち物まで、システム化、
可視化することで、新人からベテランまでその会社の営業と言う業務の
ドキュメンテーションを共有できるようにしたのです。
それを大手コンピューター会社に卸すことに成功しました。

その後、電話の音声ガイダンスで車検を予約するシステムを開発し、
大手車メーカーに卸しました。
他のメーカーへ乗り換えられてしまうことを防ぎたかったメーカーは、このシステムを導入し、
車検の引き取り日を音声ガイダンスに従ってお客様に電話でふき込んで頂きました。
人件費をかけることなくスムーズに、メーカーが最新の車種の代車を持ってお客様の所へ行き、
上手く乗り換えの営業するというやりかたは、おおいに成功しました。


新しいシステムを開発し、順調な会社だったのですね。

 

そうして千葉県の納税ランキングで8位になるほど上り詰めた会社でしたが・・・
その後、不景気と、電話音声システムの売り上げの不調で、
売り上げが激減、税金が払いきれなくなったんです。
国税局で自殺を覚悟するほどの地獄をみることになりました。
今考えれば、人や社会を顧みる、経営者としての自覚も度量も足りなかったように思います。

絶好調期から、自殺を考える程の転落人生を経験し、その後、私はもう一度
人に寄り添えることをしたいと考えるようになりました。

 

 ご自分の辛い経験から、同じような状況の経営者の方に目を向けられるようになったのですか?

 

はい。それからはライフアドバイザーとして、
中小企業や個人の相談役やコンサルティングをしています。
日本では倒産や自己破産をすごく悪いイメージで捉えますが、
アメリカでは資産の公私が分かれているので会社が倒産しても自己破産にはなりません。
そして倒産した後にまた結構すぐに会社を立ち上げられるのです。
日本であれば倒産した会社の元社長なんてイメージが悪いですが、
アメリカでは経験者ということで逆に次の会社の評価が上がるくらいですから。
つまりなにが言いたいかと言うと、日本の会社の倒産などによる、
経営者の命の問題に、私は寄り添いたいんです。
日本では年間、いったい何人の経営者が自殺しているでしょう。
私も一歩違えば、その統計に入っていました。
しかし、生き延びた。その経験を、誰かの助けとしたいのです。
そして近年ではスウェーデンの「持続可能な社会」という取り組みを勉強し、
広める活動もしております。
これは人間だけでなく動物、植物、
ひいては地球全体が持続可能な社会をつくるという取り組みです。

それからもう一つ、今の活動の基盤になっているお話があります。
それは「ビル・ゲイツからの手紙」です。

 

 「ビル・ゲイツからの手紙」は宇佐見さんの講演のタイトルにもなっておりますよね。
どんなお手紙だったのでしょう?

 

これはソニーを辞める前のお話ですが、
私はソニーを通じてビル・ゲイツから手紙をもらった事があるんです。
まだ、マイクロソフトが設立されたばかりのころです。
そこには事業計画書が書いてあり、資金集めの為の手紙だと言う事がわかりました。
ソニーは当時既に世界的に名が知れていましたらから、
そういうベンチャーからラブレターは確かに沢山着ていました。
当時コンピューターといえばIBMの時代で、
そのコンピューターの中のソフト(MS-DOS)を作ったのがマイクロソフトでした。
そしてその事業計画書には、
IBMから独立して世界中のすべての会社のコンピューターのソフトを作りたい、
その為に株主になってくれないかと、熱い想いが書かれていました。
そのころ私はマイクロソフトという会社も、
ビル・ゲイツという名前も知りませんでした。
5cmほどあった手紙のうち、後半は事業計画、
そして前半はビジネスとは全く関係ない事が書かれていました。
私が『ビル・ゲイツからの手紙』と言ってるのは、
この前半の部分で、彼はまず弁護士であるお父さんのことを
一生懸命書いていました。
続いて「お父さんお母さんを大切にしよう」みたいなことが書いてあって、
正直、なんだこれは?と思いました。
実はこれは論語だったんです。英語だったので、
すごくシンプルな文章で、当時はそうとは気付きませんでした。
つまりそこには自分のルーツや哲学を書いてあったのです。

彼は東洋哲学を非常に良く勉強していて、
儒教の教えや道(タオ)についても書かれていました。
正直、内容を理解できたのは20年も経ってからでした。
もし当時、この手紙の意味を私が理解できていたら、
もしかしたらマイクロソフトはソニーの関連会社だったかもしれませんね。

もしあの手紙を読んだのが、ソニー創業者の盛田さん、
ソフトバンクの孫さんであったら、「面白い!」と言って、
返事は変わっていたでしょうね。

手紙には公益資本主義についても書かれていました。
お金でお金を生む事業には限界があり、社会には実業が必要だと言う事です。
より人に介在し、関わり、汗を流す『実業』。
それに対して、金の先物や株などで儲けるのは虚業であり、
長くは続かないと言うことです。
会社ではなく社会、ひいては地球のことまで考える、
哲学を軸とした事業計画、それが手紙の中にはありました。
これは先ほどお話したスウェーデンの「持続可能な社会」にも繋がりますね。
こうして、手紙に書いてあったビル・ゲイツからのメッセージを、20年経った今、
私がメッセッンジャーとして広める活動をしているのです。


このように様々な貴重な経験をしてきた宇佐見さんだからこそできるセミナーが、

今、人気を集めていらっしゃるのですね。

 

これからも自分の経験や勉強してきた事を生かして、人に役に立つことを
していきたいです。セミナーや講演会なども積極的にやっていきたいです。

それから、実は私には小学校2年生の息子がいまして。
若いビジネスマンのお父さんよりは、家にいる時間が長いですから、
息子に余裕を持って接することが出来ていると思います。
家族がいてくれることにより、それまでに増して、
これからの社会のこと、暮らしのこと、
地球のことをより長い目で大切に考えられるようになりました。
この気持ちを大事にしながら、
これからもライフアドバイザーとして活動を続けたいと思っています。

宇佐見さんありがとうございました!
宇佐見さんの最新のセミナー情報は、弊社ブログで随時ご紹介いたします。

2015-03-01 | Posted in blog, intaviwNo Comments » 

 

インタビュー企画第8回 一般社団法人メンタルバランス研究所専務理事 宇佐見彰さん 前編

インタビュー企画第8回前編では、
一般社団法人メンタルバランス研究所 専務理事、
株式会社リアルパートナー アドバイザーの
宇佐見 彰さんにお話を伺いました。

宇佐見 彰さんプロフィール
Ike_
昭和46年英国ソニー、ソニーオランダ駐在員
昭和47年NATO(北大西洋条約機構軍)PXビジネスソニー全権代表
昭和48年ソニーフランス設立
昭和60年ソニー本社退職
昭和61年(株)ビジネスカルチャーセンター設立
(社)日本お助け隊 隊員
(社)メンタルバランス研究所 理事
(社)スウェーデン社会研究所 理事
ソニーOB会 理事

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まずは生い立ちをお伺いしたいと思います。 小さい頃はどんな子供でしたか?

僕は千葉の浦安で生まれました。小さい頃から機械が好きで、 ラジオを分解して組み立てたりするのが趣味のような少年でした。
親戚のラジオが壊れるのを今か、今かと待って・・・(笑
その時がくると走って直しに行っていましたね。
当時は純粋に、ラジオなどの機械に好奇心があったんです。
この小さな部品の寄り集まりからなぜ音が、声が聞こえてくるのだろうと。
廊下の隅に実験室を作って、ビーカーや試験管をならべて 少年エジソンなんて呼ばれていました。

お父様もやはり工学に興味がおありだったんですか?

はい。父もメカニカルなことが好きで、父の影響は非常に強いです。
父は零戦のパイロットでした。 フィリピンまでいったけれども燃料不足で飛べなかったんです。
それで帰ってくる事ができたと聞いています。

お小さい頃から工学部コースまっしぐらだったのですね。

そうですね。工学部進学への転機は高校生のときに起こりました。 当時、光のスピードを測るとういうことについて自分なりに研究レポートを書いたのです。
するとそれが学生科学論文集に載り、当時のソニーの副社長の目にとまって、イギリスの大学へ留学できることになったんです。
鏡と鏡の真ん中にプリズムを置いて一方から光を当てると、 その光が鏡の間を何度も反射して往復するんです。光のパルスですね。
その往復する回数がわかれば光のスピードがわかる、というものなんですけれど。スピードというのは時間と距離の問題で、僕は特に時間に興味がありました。

高校を卒業されてすぐイギリスへ留学されたのですね。
しかも一流企業の推薦で。素晴らしいですね。

イギリス留学が決まった時は、両親がとても喜んでくれました。嬉しかったですね。
ウィンザー城の近くでホームステイをして、スラウ工業大学で勉強しました。
ソニーのお客様がイギリスへいらしたときにには、運転手のようなこともしていました。
テムズ川で釣りをしたのも良い思い出です。 英語は全然できなかったんですが、生活するには必要なので自然と身に付きましたね。
刺激的な4年間を過ごして、そのまま駐在員として働きました。
留学中は数えきれないほど面白いエピソードがあったんですが、 お話しするときりがないので(笑)

卒業後はソニーでどんな業務に就かれていたのですか?

留学中から、ソニーのヨーロッパ現地法人作りに関わっていました。
ヨーロッパで事業展開していた電気メーカーの買収にはじまり、 アントワープ、ユトレヒトでは流通会社を設立してソニーの世界進出の基盤をつくりました。
そしてNYで上場にすることを目指した会社の意向で、 長期的な戦略を立てる部署でも働きました。
上場に際して必要な書類の量といったら、目眩がするほどでした。
なにしろ、ソニーの世界中のすべての会社、子会社の資産を計算し、連結財務諸表を作成しなければならなかったのです。
国によって税金のかけかたも違いますし、これは大変な仕事でしたね。 これが70年代のお話です。

アメリカへも赴任なさっていたのですか?

はい。80年代にはいると、カリフォルニアのサンディエゴへ長期出張し、 カラーテレビ工場の立ち上げの際に起きた、トラブルを支援しました。
当時すでに組み立てはロボットが行っており、行程の多くはコンピューターで管理されていました。 しかし工場にはベルトコンベアが一本しかなく、その上で3インチのテレビも、30インチのテレビもつくっていました。
そのコンベアの上に必要な部品を素早く用意するためのシステムを設計した人間がいたんですが、 立ち上げの際にそれがうまく作動しなかったんです。
工場自体は完成しているのに、品物が出来上がらない。 そういう問題を解決する為に赴任しました。交通整理みたいなもんですね(笑

当時のアメリカの労働者や労働環境から、どんなことをお感じになりましたか?

サンディエゴの工場には沢山の出稼ぎ労働者達が働いていました。 4カ国語が飛び交うような現場で、なにしろ人の入れ替わりが激しい。
長期出張してから2年が経ち、プロジェクトが終わったので記念写真を撮ったところ、日本人以外のメンバーは全員違う人になってました。
そして私は当時、終身雇用が一般的だった日本ではまだ馴染みのなかった、 「ドキュメンテーション」の制作に打ち込みました。
流動する人材に対応するめのマニュアル、つまり業務説明書づくりですね。 この「ドキュメンテーション」文化はアメリカ特有だと思います。
そして仕事をきちんとシェアするということも、アメリカで学びましたね。 残業せず、きちんと定時で帰るのは、人の仕事を奪わない為でもあり、
雇用の機会を増やす役目でもあるわけです。 日本にずっといたら、気付かなかった発想でした。

順調にソニーでキャリアを重ねておられたのですね。

はい。しかし1980年代後半、私はソニーを離れる事になります。

なぜソニーをお辞めになったのでしょうか?

私の場合は一冊の本がきっかけなんです。その本が、僕の人生を変えました。
リチャード・バックの「かもめのジョナサン」という本で、
これは映画にもなっています。 実はアメリカでは「風と共に去りぬ」よりも興行成績が良い名作なんですよ。
まずその本に興味を持ったきっかけは、リチャード・バックの インタビューに甚く感激したからでした。
インタビュー記事の中で彼は、「この本は自分の未来へ書いた手紙だ」と言っていました。
同じ時間軸に存在する別の誰かに書くのが手紙だと思っていた私には、 別の時間軸へ向けて自分に手紙を出すと言う発想に衝撃を受けました。
それでまずは私も、未来の自分へ手紙を書いてみようとしたんですね。 ところがその手紙を書くのになんと3年も掛かってしまったです。
なぜなら、未来の自分に、「今何してる?」と聞こうとして、 今の自分はそれにまったく答えられませんでした。想像もできなかったんです。
というかそもそも、自分の未来を自分で決めようとしたことが、私にはなかったんです。
サンディエゴに行って工場を作りなさいとか、オランダに物流センター作りなさいとか
上から指示があれば動けましたし、それも仕事として、とても楽しかった。
けれど与えられた問題用紙がなかったら自分はなにが出来て、なにがしたいのだろうか?
その問いを考え続けるなかで、 人生は白い紙に自分で問題用紙を作らなければいけないという事に気付きました。
これがもの凄く重大なんです。
「自分で自分の人生の問題用紙を作りたい。」
それが、ソニーからの独立のきっかけです。

自分で自分の人生の問題用紙を作る。
そういう訓練が、日本人には本当に足りていないと感じますね。
宇佐見さんありがとうございました。
それでは次回の後半は、独立後のお仕事について詳しくお聞きしたいと思います。

2015-02-21 | Posted in gallery, intaviwNo Comments » 

 

インタビュー企画第7回 株式会社マーケティングハイ 代表 平林 周さん 後編

インタビュー企画第7回
株式会社マーケティングハイ 代表取締役 (コンサルタントプロデューサー)
平林 周さん インタビュー 後編を掲載させて頂きます。

前編はコチラから
中編はコチラから

hirabayashi02

平林 周 Shu Hirabayashi / 株式会社マーケティングハイ 代表取締役 (コンサルタントプロデューサー)


2013年11月に株式会社Marketing Highを設立。
理念に『小さな企業にハイポジション』を掲げ、現在はスタッフ1名とともに奮闘中。
コンサルタントの顧客獲得支援を通じて『10年で100億円の問題解決』をミッションとする。


http://marketinghigh.co.jp

☆平林 周さんへのインタビュー 後編

まだ会社を設立されて1年2ヶ月しか経っておられないのですね。
この1年はどんな日々でしたか?

 

僕が立ち上げた株式会社Marketinghigh(マーケティングハイ)はコンサルタント専門のマーケティング会社です。
最初はwebマーケティングやセースルに力を入れたコンサルをやろうとしていました。
しかしこの約1年で僕のコンサルティングにも成長と変化がありました。
今は自分の、自分らしいコンサルの方法を実践することができています。

 

平林さんらしいコンサルティングについてぜひ教えてください。

 

それは単価100万円のコンサルティングを実現させることです。
その方法として『世界観セールス』というメソッドを体系化しました。
なにそれ?って思いますよね。”世界観セールス”ってなに?と。
順番にお話していきますね。
そもそも、
僕のコンサルティングで大切にしていることは2つあります。

僕自身がコンサルタントとして『完璧主義であること』。
それから
クライアントさんとお話して『違和感を探すこと』。

新しい販売戦略を打ち出すとか、そういうことでは全くないんですね。
こういうことをやりたい、こういうものを売りたい、
そういったクライアントさんのお話のなかに必ずある
違和感、つまり悩みの根本を見つけて、力強く、
まっすぐにしてあげるだけで、飛躍的に伸びるんです。
僕はマーケティングやセースルがある意味下手でも
これができていれば売れると思っています。
最初にお話したように、
僕も初めはマーケティングやセースルに力を入れたコンサルをやろうとしていました。
しかし、事業者という人間の根本的な悩みを一緒に解決できなければ、
売れるものも売れないのだとわかったんです。

僕のコンサルティングは単価100万円です。
ですから、時間がかかる方もいらっしゃいます。
この100万円を高いと思う方もいらっしゃると思いますが、
僕はそれだけお支払頂くからこそ、
躊躇なく切り込んだ濃密なコンサルティングができることを知っています。
それは会社や事業や商品のコンサルでなく、
事業者本人の『世界観』のコンサルティングをするからです。

 

なるほど。
本気で学びたい人だけに響く、高額セミナーの考え方と通づるものがありますね。
「世界観」を作るコンサルティングについてぜひもうすこしお話頂けますか?

 

そうですね。
例えば集客に伸び悩むセミナーのコンサルは僕の得意な分野です。
セミナーの単価を上げることから初めて、web制作、セールスレター、広告など、
僕がプロデュースをするという形でコンサルティングに入ります。
クライアントさんは大体において、如何にこのセミナーが素晴らしいか、
講師の先生が凄いか、ということを訴えようとしてします。
でも僕はそんなことはしなくていいと考えています。

このセミナーが素晴らしいもので、お客様に是非受けてもらいたいと、
”何故思うのか”
”その想いの根源はなにか”
それをクライアントさん自身が明確にし、伝えることが大切だからです。
あなた(クライアントさん)は何故、その仕事をしているのか、なぜその商品を売っているのか。
それが物語、つまり『世界観』なのだから。
その世界観を明確にすることで、
最強かつ、真実のセールスメッセージが浮き上がってくるのです。
これはぜひ弊社のコンサルティングを受けて、体験して頂きたいですね。

このように世界観を作れば
メッセージに血が入り、熱が入ります。
するとやはり人間には伝わるんですね。
このやり方でセールスをかけると本当に売れましたし、
最初に単価をあげておいた事で、成約数が絞られても会社を回す事ができます。
セールスをかける分母を増やすようなマーケティングはそれからで充分なんです。

 

世界観とは、その人の人生の使命の様なものであり、本当の共感を呼ぶ物語の様にも感じます。

 

これが”世界観”を大切にするという、僕のコンサルティングなんです。
自分が本当にやりたい事をビジネスとして設計できているか?
それを僕はコンサルしているんです。

繰り返しになりますが、
あなたは何故、その仕事をしているのか、なぜその商品を売っているのか。
その物語、つまり自分自身の世界観がしっかりしていれば、
セールスをかけたときにちゃんと成果がでるんです。

 

平林さんのことがカウンセラーさんに見えてきました。
それからコーチングの概念もありますよね。

 

僕のコンサルティングにはカウンセリングとコーチングが混ざっています。
ただしカウンセリングはその人の心の奥にしまってあるもの・・・
つまり、トラウマを見つけてあげるだけで、触れる事はしませんよね。
しかし僕はコンサルタントなので、それを引っ張り出して解くお手伝いをします。
コンサルタントの方って、頭のいい方も多いですから問題点を見つけると
「はいはいわかります、ここを直しましょう!」と、
いきなり斬りつけてしまうこともあると思うんです。
でも人間は頭で納得できても心で納得できないことがある。だから僕は
「本質的な問題はなんだと思いますか?」と、本人に考えて頂きます。
そして、道標(みちしるべ)を目の前の置いてあげるんです。

 

コンサルティングを受ける中で自分で自覚することが大切と言うことでしょうか?

 

はい。問題を自覚できれば、つまり問題が顕在化されれば、それを解決することは簡単だったりします。
人材や技術やお金で解決できることが殆どですから。
それを認識することが大変なんですよね。

こういうお話が続くと、宗教っぽいと言われることがあるんですが、
僕は特別な宗教観とかは持っていないですよ。

 

私は、平林さんはすでに悟りをひらかれている御坊さんようにすら感じます。

 

悟り、ひらいてますかね(笑
ただ、ヨガの本を読んだ時も、神道のお坊さんとお話したときも、
悟りを開いた方の物語にはすごく共感しました。
僕が今していることは悟りを開いた方の教えに非常に近いのだと思います。
例えばヨガの世界では内的観察をしなさいという教えがあるのですが、
僕もよくクライアントさんに
自分の心の揺れを感じて下さいと言っていました。

いつかそういうお話を僕なりに本にまとめられたら良いと思っています。

 

出版楽しみにしています。
それからやりたいことについてお聞かせ願えますか?

 

これからやりたいことについてですが、今やっと僕がマルチプレーヤーとして動く会社から、
ちゃんと人に仕事を振って、チームで制作が出来るようになってきたところなんです。
web制作やライティング、僕自身のマーケティングなどから僕はできるだけ離れて、
コンサルティング業務に集中したいと思っています。

 

起業家を目指す若い方達にメッセージがあれば御願い致します。

 

僕は仕事をしたり発信したりするのに年齢は関係ないと思っています。
そしてロジカルなことだけでなく、目に見えない『あなたが感じている事』を大切にしてほしい。
学校教育のなかでは説明されていないことに敏感になってほしいと思います。

 

平林さん、本当にありがとうございました!今後の活躍を期待しております。

 

2015-01-24 | Posted in blog, intaviwNo Comments »